遺憾ながら、私は塚本敏雄の第一詩集『花柩』(1993年・思潮社刊)に目を通していない。したがって以下の拙稿は第二・第三の二つの詩集のみを比較してのものなので、あるいは甚だ見当違いな指摘となるかもしれない。こう前置きするのも、なんだかちょっとずるいようだが、一応、あらかじめお断りしておく。

 というわけで、新刊『英語の授業』(2006年・書肆山田刊)について語るにあたり、あらためて前作『リーヴズ』(2001年・思潮社刊)もあわせて読み返してみたのだが、この二冊にあまりにも極端ななまでの表現様式の相違があることに、まず驚いた。

 例えば、彼の第二詩集の巻頭詩「春の星座」は、次のような詩句で始まっている。

  今日も娘と星を見る
  半球形のドームの内側に
  あれが春の曲線
  あるいはあれが
  春の大三角形
  ナレーションは大熊座と
      小熊座について説明している
    (後略)

 あるいは、「船出の朝」の第二節。

  私たちの一日はまだ始まらない
       不思議に蝉さえも鳴き出さない
     あたりはしんとして――
  その子は誰と遊んでいたのか
   夏の陽射しは早いから
    窓から射し込む木立の影が
     いくらか傾いでいるようにも見えた

 ここには明らかに作者の、紙面上の文字の付置に対する注意深いこだわりを見て取ることができる。そして、こうした字下げの変化の多用による視覚的効果への配慮は、第二詩集の全篇にわたって徹底しており、この詩集をぺらぺらと捲っていると、まるで譜面を追っているようなリズム感を感じるのである。

 それはいわば、「文字による空間性の獲得」への執着であろう。少なくとも作者は、この第二詩集の時点では、確実に「書き言葉」への信奉を詩作の箍としていたことが分かるのである。

 一方、それと甚だしく対照的なのが、今回の『英語の授業』だ。この詩集に収められた作品の中で、他の行とは異なる字下げが見られる詩は、わずかに二篇のみである。それも、「『山月記』論(編集部注=以下、電藝掲載のページへリンクするが、詩集掲載原稿は基本的に手が加えられている)の『山月記』の引用箇所、そして「梢にて」の二十年ぶりに出会った友人の語り箇所、つまりいずれも他者の言葉の挿入部分であり、そのことを視覚的に明示するため、という、事務的とでも呼びたくなるような処理として字下げを採用している。その二箇所以外は、本書では徹底的に字下げの変化を排除しているのである。これは明らかにきわめて恣意的な作者の詩作の転換を示すものと言えるだろう。

 そして、彼が「文字による空間性の獲得」を捨て、それとは別に得ようとしたものが何であるか、それがもっともよく表出されているのが、次のような語りで始まる詩篇である。

  ぼくは不思議に思うのだ
  チョコボール向井
  なぜ誰もあなたのことを語らないのかと
  あなたほど
  自らの存在を社会に向かって露出させている人は
  滅多にいないだろうに
  誰もあなたを語ろうとしない
  チョコボール向井よ
  (後略)

 このようにして延々と具体的な他者に向かって熱をもって語り続ける「チョコボール向井に」ほど、前作との異相を分かりやすく示すものはない。そしてこの「語り」への執着、言い換えれば「文字による身体性の獲得」への執着、その度合いは、前作同様の徹底さをもって、本書の全篇に貫かれているように思われるのだ。

 ではなぜ彼は、「書き言葉」から「話し言葉」へと、詩作の箍を転じたのか。その理由は、本書のあとがきを読めば、案外たやすく理解できる。ここで作者は「朗読用に書いたつもりは全くない」と自ら強調しているが、しかしそれでも、前詩集との対照を試みてみれば、やはり「同人誌をやめ、つくばのオープンマイクに関わ」り「そのオープンマイクのために書いたものがほとんど」ということが、方法論の変容と結びついていることは明らかだろう。

 だが私は、この拙稿で、彼の詩作の変化を指摘することを目的としているのではない。むしろその逆である。「書き言葉」から「話し言葉」へといかに方法論が転位しようとも、なお一貫して彼の詩篇の中に存在する共通の音叉のようなものが、表面上の変化によっていっそう浮き彫りとなったことをこそ、私は指摘したいのである。

 もっとあっさりと言ってしまえば、「話し言葉」に転位することによって、彼の詩はとても平明なものになった。こう書くと誤解を生じそうなので急いで断っておくが、私はそのことを決して否定的に捉えているのではない。彼の詩魂の音叉が、より素直に共鳴するようになった、と言い換えてもいい。そしてそれは、決して悪いことではない。

 第二詩集から今回の詩集まで共通して存在する塚本敏雄の詩の特徴、あるいは魅力といってもいいもの、それは「死者に対する視線」と「死者からの視線に対する意識」のリリカルな交錯である。その交錯こそ、「衝立ての向こう」(=they)と「こちら」(=we)、そのはざまで永遠に「うろうろ」する音叉の共鳴であり、そしてそれこそが彼の詩そのものなのだ。

 第二詩集では、まだぼんやりとしか感じられなかった以上のことが、「話し言葉」に転じることによってきわめて鮮明になった、と、このことが本書を読んでもっとも強く受けた私の印象である。

 それにしても、これほど大きく表現様式を変えた彼が、では次に、「話し言葉」から何言葉へと位相を転じるのだろうか。それとも、さらにその語りの口調を強め、より純化していくのか? あるいは、再び意表をついて「書き言葉」へと縒り戻るのか。

 いずれにせよ、第四詩集を楽しみに待ちたい。

2006年7月10日号掲載

 

 

 
p r o f i l e