この度、茨城文学賞(詩部門)をいただきました。茨城ローカルの文学賞ですが、自分の地元の賞なので、自分の先輩たちが育んできた賞をいただくのはありがたいことだと思っております。
この機会に何か書けと、吉田編集長から依頼がありましたので、詩集出版の経緯など少し書いてみたいと思います。
詩集の原稿がまとまったのは昨年の8月でした。詩集の後書きにも書きましたが、2001年に第2詩集『リーヴズ』を出してからの作品を集めたものです。
2000年に水戸の同人誌をやめ、つくばのオープンマイク(朗読会)、ポエマホリックカフェに参加するようになりました。この電藝にもポエマホリックのメンバーがかつていろいろと原稿を書いていましたから、古くからの読者はご存じかも知れません。ポエマホリックカフェは月1回開催でしたから、月に1作用意しなければならないわけですが、それまでの10年間、同人誌は年3回、途中からは年2回の発行でしたので、その〆切にあわせて詩を書く生活が、つまり年2、3作のペースが10年以上も続いていたわけで、突然月1作と言われてもそんなに簡単には書けません。そこで、2000年あたりは旧作を読んでいたはずです。ちょうど『リーヴズ』の原稿をまとめていた時期でしたから、その詩集に収録する予定の詩を読んでいたと思います。しかしいつまでもそうしているわけにもいかず、これは新作を書いて読まねばと思い始めたのが2000年の暮れか、2001年の初めの頃だったように思います。そこら辺からは月1作のペースに変わりました。「年に2、3作だった人が今じゃ12作のペースだもんなあ、我ながらスゲエなあ」などと思っていたものです。人はいろいろなものに慣れるのですね。その他にこの電藝には比較的短い詩、あるいは詩の断片のようなものを書いていましたから、それまであわせると、自分としてはかなりの数の詩をこの時期書いていたと思います。
『リーヴズ』は、思潮社という出版社から出しましたが、打合せに訪れた思潮社で社長(会長?)の小田久郎さんと話をしていた時、「年数作なんていうのじゃダメだ、とにかく数を書くことが必要だ」と言われ、ああ、やっぱり数は大事なんだなあと思ったこともこの時期ちょっとは影響を与えているかも知れません。
今回の『英語の授業』の原稿を8月にまとめ終えて、第1詩集も第2詩集も思潮社にお願いしたから今回は目先を変えて書肆山田にお願いしたいなあと思いました。書肆山田は、詩の出版社では、思潮社と並ぶ代表的な出版社です。しかし、厳しい出版社とも聞いていて、わたしの知り合いがここから出した時は、何作は書き直して下さいと言われ、また、核になる詩をもう一編書いて下さいとも言われた、とか、そんな噂も聞いていましたから、果たして出してくれるだろうかと思いながらまずは電話をかけてみました。
電話に出たのは女性の編集者の方で、書肆山田は社長の鈴木一民さんとこのベテランの編集者の2人で編集をおこなっているようでした。じっくり作っているので、1年以上かかることもありますよと言われ、ともかく原稿を拝見したいので送って下さいと言われました。早速送りましたが、2週間以上経っても何の返事もないので、これは困ったなあと思いました。もし、箸にも棒にもかからない代物だと思われているとしたら、そのまま他の出版社に持っていっていいのか、それとも、全体的に書き直しをしてからがいいのかと思案していたのですが、編集者の方から手紙を来て、忙しくて目を通す時間がなくて遅れてしまったとお詫びの言葉がありました。目を通したところ良い詩なのですぐに出版しましょうという意味のことが書いてあり、一安心しました。辻征夫さんの詩に通じる雰囲気を持っているとも言われ、とても嬉しかったのを覚えています。
その後は、校正を3度繰り返し、装丁に関する打合せをして、今年4月の出版にこぎつけました。うちの詩集は4月出版の本がこれまで縁起がいいんですよと言われました。それで4月中の発行に間に合わせたという舞台裏があったりしました。
実は、今回の詩集には最初あまり自信がなかったのです。だからこそ、昨年9月の時点で、これはダメなのかなと思ったのでした。自信がないのは、これまでの自分の詩とちょっと変わった部分があるので、そこのところに自信が持てなかったのです。しかし一方で、これまでの詩と同じなら進歩がないということなので、チャレンジがあるということは不安もあるのは当然のことなんだ、必ず通らねばならない道なのだと自分に言い聞かせたりもしました。
幸い、概ね好評に迎えられているように感じるので、嬉しいことだと思っております。その結果として、賞をいただけたのは望外の喜びです。ありがとうございました。
2006年11月6日号掲載
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