特集 塚本敏雄
 


 詩を書くというのは、いったいどういう行為なのだろう。
 塚本敏雄の第2詩集『リーヴズ』では、詩は例えばこんな風に始まる。
  (1)ひっきりなしに台風だ(「秋の星座」)
  (2)今朝駅前で偶然に/二十年前の君を見つけた(「邂逅」)
  (3)いま夢を見ていたよ/変な夢だった(「in a cage」)
  (4)数字を使って話すと何となく/偉そうな感じがするのはなぜだろう(「空」)
 (1)は一見、事実の記述のように思われるが、記述に必要な時間と場所を欠いていることで、自分自身あるいは誰か時間と場所を共有している人への語りかけという印象を受ける。(2)は、明かに「君」という二人称で表わされる誰かへの語りかけ。(3)も人称を欠く誰かへの呼びかけ。(4)も誰かに問いかけられた答のない疑問だ。
 『リーヴズ』の詩篇の多くは、そのように誰かへの親しみをこめた語りかけないし呼びかけの声とともに立ち上がる。しかし、その誰かとは「二十年前の君」(「邂逅」)であったり、「生れなかった子」(「百葉箱」)であったり、あるいはテレビ画面や鏡のなかにかいま見える異星に住むもうひとりの自分(「漂泊」)であったりする。それは、ここにはいない誰か、あるいはいまここにいる私ではない自己の分身への呼びかけである。
 そのほかにも『リーブズ』の空間には、「もう夢のなかでしか会えないひとと/ひょっこり出くわすような気が」したり(「森の道」)、「何者かにあらがう激しい羽音」を残しながらも姿の見えない鳥(「in a cage」)が登場したり、あるいは「まるで他人の名前のような/自分の名前が/汚れた海草のように/流れ着」いたりする。それは、幽霊たちの出没する空間である。
 なかでも注目されるのは、「漂泊」や「異郷にて」で繰り返し語られる、いまここにいる私ではない「もうひとりの私」というアイディアである。その中心を担っているのは「一条の光」という詩篇であろう。
 
  ときおり君は
  あの時ああしていれば と呟くことがある
  だが 本当にその時そうしていたら
    いまの君はきっと
    いまの君とは違ったものになっていた
    かも知れないじゃあないか
  だとすると
  ああしていればといま呟いている君も
  ここにはいないわけで――
  (中略)
  君が何か取るとき
   君はそれ以外の無数の何かを取らない
    取られなかった無数の何かが
    君の周りを占めている
  それがつまり
   君の空だ

 私たちは、すべての瞬間において、無限の可能性のなかから行為を選択して生きている。その可能性のすべてについて、それぞれが実現された世界が、実現されなかった世界と並行して存在する。つまり私たちが生きている「現実」は、他に可能であった無限の数の世界のひとつであり、私自身もまた他の可能性を生きた無限の数の「私」の一人に過ぎない…。これはSFでは「並行世界」、哲学では「可能世界論」という名でおなじみのアイディアである。
 可能世界論は、非ユークリッド幾何学など一九世紀以降の科学的な知の認識に大きな役割を果たしたが、この世界観を実践の場においてみると、言うまでもなく大きなアポリアを生みだす。行為の選択のたびごとに無数の私が発生し、別の世界で生き続けるというのでは、行為の主体としての私の決断の意味合いが無化されてしまい、主体的な行為に伴う責任といったものも生じようがない、ということになってしまうからだ。
 それは、「私」や現実が複線化され、すべてのものが虚構のように見えてしまうというポストモダンの現在が抱えるアポリアそのものである。
 難解だった第1詩集『花柩』に比べて、『リーヴズ』の詩篇は格段に平易な印象を受ける。しかし、それは塚本が古典的な時間性に回帰していることを意味するのではない。むしろ、『リーブズ』は徹底的にポストモダンを生きている詩集なのだ。
 クリプキは、可能世界論ではバラバラになってしまう自我をひとつのものにつなぎとめるのは固有名であると説く。その点、『花柩』と比べてみれば明かなように、『リーブズ』は徹底して固有名を欠く世界である。それは言葉を変えれば、いまここの現実と虚構の世界が同じ権利で並存してしまうヴァーチャル・リアリティの世界である。
 しかし、『リーブズ』の世界に仮想現実の冷たさが感じられないのは、その語り口が、家族への言葉かけのような親しく温かい声に充たされているからだろう。
 この詩集で誰もが印象的に感じるのは、「娘」や「少女」、「生れなかった子」など、未来を担う子供に語りかける言葉の美しさである。
 詩集タイトルにもなっている巻末の「リーヴズ」では、公園のベンチから見上げる立ち木の葉が、網の目となって世界に張り巡らされた「言葉」のイメージに重ねあわされる。そしてそれが、カスミ網による「残酷な」猟の思い出を喚起するやいなや、「不思議な声が聞こえてくる」。それは「ずっとながいあいだ/ぼくをだましてきたんだね」と告発する子供の声である。また、「舟出の朝」では、冒頭に子供がはじめて言葉を口にした夏の朝の光景(中井久夫のいう「言語爆発」のはじまり)が印象的に描かれ、それが未来へのあてどない舟出のイメージに重ねられる。
 子供たちは、その人生の端緒にあたって、言葉をもたない存在として大人が形成する言語コミュニケーションの世界に全く受動的に入っていく。それは子供にとっては、芹沢俊介のいう「イノセンス=根源的受動性」という言葉を思わせる絶対的な関係性である。
 『リーヴズ』の詩人は、言葉をつむぐ者として、そうした子供たちへの加害責任を自覚することを転回点に、ポストモダンの現在の向こうに、アポリアを乗り越える方途を透かし見ようとしているのかもしれない。
 『リーヴズ』は、そんな時間のなかを漂っている。