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ユダヤ=キリスト教的な宗教的物語の戯画

 「マトリックス」の世界が、実は「現実」ではなくCGによって作られたシミュレーションの世界であるということが、映画『マトリックス』のミソとなっている。人間がコンピュータを駆使して作り上げたシミュレーションの世界が現実の世界に取って代わり、その「現実」の「代替」の世界の中で、人間がコンピュータによって飼育されているというのが『マトリックス』の仕掛けだ。人間はコンピュータの作るシミュレーションの中で「洗脳」されている。こうして胡蝶の夢の世界が作り上げられる。

 こうした設定は、実は目新しいものではなく、古来から存在する様々な物語の変奏だと考えることもできるだろうし、近未来を描いたSFや最近の映画にも同様の設定が存在する。例えばデビッド・クローネンバーグ監督の『イグジステンス』では最新式のゲームが主題になっているが、そのゲームに参加するためには人間は手術を受けて直接ゲーム機にアクセスする端子を人体に埋め込まなくてはならない。そうして参加するゲームの世界では主人公は殺されてしまうこともある。この映画の面 白みを、そこで描かれている世界がゲームの中の世界のことなのか、映画が描いている現実の世界のことなのかが分からなくなってくるところであると、ある批評家は語っているが、現実と仮想の世界が区別 が付かないという意味において、それが現実と仮想の区別を前提にしているとすれば、『マトリックス』は、現実が仮想であった、もしくは仮想が現実であったということを前提にしている。そしてそのことが結論からいえば、この映画の物語的な帰結をある意味で貧しくもしている。

 というのは、結論からいえば、『マトリックス』にも現実世界と仮想世界ははっきりと区別 されて存在しており、その現実の世界では、コンピュータと原人類が敵対している。原人類は、コンピュータによって栽培されていない古来種であり、秘密の空間で細々とつましい生活をしながらコンピュータによって飼育されている人類を解放しようとしている。したがって原人類には加工されてコンピュータと繋がれる端子はなく、『マトリックス』の世界に入り込むことはできない。主人公ネオは、「マトリックス」の中で生まれた「マトリックス」の世界の中でのハッカーであるが、彼は「予言者」によって人類をコンピュータから解放する「救世主」として待望されていた人物であったということになる。こうして『マトリックス』の世界は、ユダヤ=キリスト教的な宗教的物語の戯画と変貌する(あるいはそのものとなる)。原罪を持って堕落した人類を千年王国へと救済する救世主の物語。人々よ、悔い改めて真の世界の意味を悟れ。あなたたちは疎外されている。その虚偽意識を批判し、いまこそ人類は解放されなくてはならない。

             

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