昨晩TVで放映していたリドリー・スコット監督の『グラディエーター』で、皇帝コモドゥスは宿敵マキシマスをコロシアムの舞台で殺害することができない。それは自らの政権基盤が、いまマキシマスをコロシアムのヒーローに祭り上げている民衆の熱狂とまったく同一のものであるからだ。
映画『グラディエーター』は、皇帝コモドゥスと将軍マキシマスの敵対を軸に進む。マキシマスは武勲赫々、人望にも篤く前帝マルクス・アウレリウスの全幅の信頼を得て、次期皇帝に推されるが、マルクス・アウレリウスの息子コモドゥスはそれを恨み、父を殺害して自らが皇帝の地位に就く。そしてマキシマスの故郷の妻と子どもを殺害し、マキシマス自身をも殺害しようとする。しかし皇帝についたコモドゥスは元老院の支持を得られず、民衆の歓心をかうために大規模な剣闘大会を企画する。マキシマスは殺害を逃れて生き延びるが、妻子を虐殺されて自らも大きな傷を負い失意のうちに奴隷の身に落ちるが、剣闘士(グラディエーター)としての力を発揮して、ローマでの大会に臨むことになる。コロシアムの観衆の前で絶体絶命の状況での戦いを制したマキシマスは民衆の歓喜に称えられ、闘いぶりを賞賛しようとアリーナに降り立つ皇帝コモドゥスを前に兜をとって顔を表わし名をなのることを求められる。民衆の支持によって自らの権力を維持しようとするコモドゥスは、コロシアムの場でマキシマスを殺害することはできない。
反対勢力を与党内に抱えながら、自民党が小泉純一郎を党首にいただかざるを得ないのは、小泉が民衆の歓心をかうことに成功しているからだ。今回の衆院選は、マニフェストを掲げて小泉純一郎と菅直人のいずれがより大きな支持を得るか(あるいは菅が小泉にどこまで肉薄することができるか)に焦点があたり、計算違い(藤井×石原の泥仕合)も含めてさまざまな役者が舞台でパフォーマンスを演じている。こうした状況を中野博文は政治のポストモダン化と呼んでいた(「ポストモダンとしてのクリントン」中野博文『大航海』No35、拙文「イチローは偉い」も参照)が、それが毎日新聞の西川恵が書くように冷戦崩壊後の流れの中で「機能する政治実現」に向けた「革命」への途とつながるのか(毎日新聞大阪本社版2003年11月2日)行方を見届けたいと思う。いずれにせよそれは、旧弊の政治手法が機能しなくなり政治が流動化していることの現れであることは確かだからだ。
ちなみに、マルクス・アウレリウスはローマ5賢帝の最後の皇帝。ネルウァからアントニヌス・ピウスまでの4人の皇帝が、後継者に実子でない適任者を選んだのに、マルクス・アウレリウス帝が不肖の実子コモドゥスを後継者にしたことは古来から批判されている。しかし、ネルウァなどが養子を後継者にしたのは、実子がいなかったためであり、実子がいたマルクス・アウレリウス帝がコンモドゥスを後継者にしたのはごく当たり前のことであった。アウレリウス帝の実子であったコモドゥスは、実際には父帝の生前から、副帝、最高司令官などの称号を与えられ、西暦
117年には共治帝となり後継者であることを明らかにされる。 182年にコモドゥス殺害の陰謀が発覚してから元老院と敵対するようになり、治世晩年にはローマを「コロニア・コンモディアーナ」と改名したり、自身をヘラクレスの化身として崇拝させたり、剣闘士として競技会に参加したりといった乱行を行う。自ら剣闘士としてコロシアムに出場したのは本当。しかし、父帝を殺して皇帝になったわけではないし、コロシアムで殺されたわけでもない、とのこと。
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