会社でPCを前に仕事をしていると社内のITリテラシーのためのメールが配信されてきた。タイトルには「ハムラビ法典からPS2まで」とある。データが壊れて失われてしまうことがないように、大事なデータはバックアップを取っておく必要があるが、そもそもデータが壊れるということがどうして起こるのかということを、メディアの特性ごとに解説しようというのだ。
ハムラビ法典は粘土板に楔文字が刻まれている。粘土板が破壊されたら文字も読めなくなる。本は紙にインクで情報が書き込まれている。紙が破れたり虫に喰われると文字が読めなくなる。レコードは樹脂の表面に溝を刻んで音を再生するし、テープレコーダーはテープの表面に塗布された膜に磁気で情報が「書き込まれて」いる。フロッピーディスクも基本的にテープレコーダーと一緒で、したがって静電気や磁気が天敵である。ハードディスクの情報の書き込み方法も基本的には一緒だが、メディアの物質的な特性による破壊が起こることがある。磁気を書き込む膜の表面が傷ついたり、メディアの本体が壊れたり、ハードディスクだったら駆動装置が壊れることもある。PS2のメディアにはDVDが使われているが、DVDへの情報の「書き込み」はCD−ROMも同様に光で行われている。光で書き込まれたり読み込まれたりするのは、MOと呼ばれるメディアの場合も一緒だ。等など。

なるほど。それから私はふとインターネットでハムラビ法典を調べてみることにする。

あるサイトに簡単な解説がある。
「バビロン第1王朝の王でメソポタミア地方を統一したハムラビ(紀元前18世紀ごろ)が制定したくさび形文字による法典。当時の法律を集大成した成文法で刑は「目には目を」との復讐(ふくしゅう)法に基づく。20世紀初頭に発見され、パリのルーブル美術館に所蔵されている石碑が有名だが、法典の粘土板は旧バビロン王国の各地で発見された。」

共同通信は4月13日の記事として、バクダッドから次のように伝えている。
バグダッドのイラク国立博物館のジャバル・イブラヒム館長は13日、同館に所蔵されていた最古の法典「ハムラビ法典」が刻印された石碑の一部が盗まれた可能性が大きいことを明らかにした。 関係者によると、同館では複製品を展示し、本物は倉庫に保管していた。しかし、10日前後から始まった一部市民らの略奪で複製品は破壊され、倉庫も荒らされ、本物も行方不明となったという。
13日に初めて同館を訪れたイブラヒム館長は館内の荒廃ぶりに「信じられない。半分ほどの所蔵品が盗難されたか破壊されたと思う」と語った。同館では被害の詳細は早急に調べることにしている。同法典の石碑はパリのルーブル美術館などにも所蔵されているとされる。

 

     
text/キムチ 

 

キ ム チ p r o f i l e

 

あるサイトには匿名でこんな意見が書かれている。「犯人断定は時期尚早だろうが、イスラム過激派が存在する限りテロは決してなくならないだろう。知人のイスラム教徒は個人的には良い人たちばかりだが、同時多発テロ以来イスラム世界のことが好きになれなくなった。平和に暮らす人々の安全を脅かすイスラム教徒もいる。目には目を歯には歯を。それがイスラム世界なのでしょうか。今回のテロでは日本人の犠牲者が出た。日本も安穏とはしていられない。国家として軍備を含めた万全のテロ対策を講じるべきでしょう。平和ボケした日本のままでは平和交渉をしても世界に相手にされないでしょう。」

イスラム教とハムラビ法典は関係がないし、その意味も誤解されていると諌めるサイトもある。
「目には目を、歯には歯を」というのは「やられたらやりかえせ」という意味ではなく、「やられても、やり返すのはそこまでだ」という意味で、復讐の無限連鎖を断ち切る意味があるのだと。それでもある人たちはいう。「少年法のほんとうの意味は、未来の社会を支えるはずの人達(=納税者。脱税や犯罪を繰り返す人間は適応範囲外)をむやみに犯罪者にしないことにあるはずだ。最近の幾つかの例のように更生が考えられないものに適応する必要なんかないし、社会全体からみれば即死させてもいい。何年かただ飯食わせて復帰させるなんてもってのほか。社会に復帰したら何倍もの税率を科すのが合理的だろう。」

「未成年にしろ精神鑑定にしろ、責任能力がないから責任を問わない事自体が諸悪の根源だ。責任を取れない未完成の人間が犯した罪の責任はその身内がとるべきで、身内の手に負えないのであれば社会が責任をもって隔離、治療あるいは処分するべきだ。」

「ハムラビ法典の精神を見直すべきだ。他人の目を奪いし者はその目を持って償いとせよ、ひと一人殺してしまったら死んで詫びるか、二人分の価値を生み出す人間になることが償いである、と思う。切れたくてもぐっとこらえて生きてきた者としては、「死んで侘び入れて」貰いたいです。」

ところで、ジョルジュ・アガンベンは「ホモ・サケル(聖なる人間)」について語っている。「ホモ・サケル」は古代ローマに存在したそれを殺しても殺人罪に問われない人間のカテゴリーであり、法一般の網からも外され非人間化された人間だった。そもそもいかなる人々を、いかなる資格において、いかなる法の前に立たせるのか。ガヤトリク・C・スピヴァクの語る「サバルタン」もそうしたカテゴリーのひとつかもしれないが、人々の眼前に現れることなく語ることもできず死に行く人々の存在がある。

→ハムラビ法典<補遺>

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