あるサイトには匿名でこんな意見が書かれている。「犯人断定は時期尚早だろうが、イスラム過激派が存在する限りテロは決してなくならないだろう。知人のイスラム教徒は個人的には良い人たちばかりだが、同時多発テロ以来イスラム世界のことが好きになれなくなった。平和に暮らす人々の安全を脅かすイスラム教徒もいる。目には目を歯には歯を。それがイスラム世界なのでしょうか。今回のテロでは日本人の犠牲者が出た。日本も安穏とはしていられない。国家として軍備を含めた万全のテロ対策を講じるべきでしょう。平和ボケした日本のままでは平和交渉をしても世界に相手にされないでしょう。」
イスラム教とハムラビ法典は関係がないし、その意味も誤解されていると諌めるサイトもある。
「目には目を、歯には歯を」というのは「やられたらやりかえせ」という意味ではなく、「やられても、やり返すのはそこまでだ」という意味で、復讐の無限連鎖を断ち切る意味があるのだと。それでもある人たちはいう。「少年法のほんとうの意味は、未来の社会を支えるはずの人達(=納税者。脱税や犯罪を繰り返す人間は適応範囲外)をむやみに犯罪者にしないことにあるはずだ。最近の幾つかの例のように更生が考えられないものに適応する必要なんかないし、社会全体からみれば即死させてもいい。何年かただ飯食わせて復帰させるなんてもってのほか。社会に復帰したら何倍もの税率を科すのが合理的だろう。」
「未成年にしろ精神鑑定にしろ、責任能力がないから責任を問わない事自体が諸悪の根源だ。責任を取れない未完成の人間が犯した罪の責任はその身内がとるべきで、身内の手に負えないのであれば社会が責任をもって隔離、治療あるいは処分するべきだ。」
「ハムラビ法典の精神を見直すべきだ。他人の目を奪いし者はその目を持って償いとせよ、ひと一人殺してしまったら死んで詫びるか、二人分の価値を生み出す人間になることが償いである、と思う。切れたくてもぐっとこらえて生きてきた者としては、「死んで侘び入れて」貰いたいです。」
ところで、ジョルジュ・アガンベンは「ホモ・サケル(聖なる人間)」について語っている。「ホモ・サケル」は古代ローマに存在したそれを殺しても殺人罪に問われない人間のカテゴリーであり、法一般の網からも外され非人間化された人間だった。そもそもいかなる人々を、いかなる資格において、いかなる法の前に立たせるのか。ガヤトリク・C・スピヴァクの語る「サバルタン」もそうしたカテゴリーのひとつかもしれないが、人々の眼前に現れることなく語ることもできず死に行く人々の存在がある。
→ハムラビ法典<補遺>
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