前々回の原稿が舌足らずで誤解を生んでいないかと心配になったので、少々補足をしたいと思います。
私の知人にイスラム教徒のビルマ人がいるが、ビルマ(注1)の国民の9割は仏教徒であり仏教を国教のように扱うために少数派のイスラム教徒との間に軋轢を生んでいるという。迫害だとはっきり言うものもあるし、軍事政権は仏教徒とイスラム教徒との間の紛争を利用していると言うものもある。国内でのイスラム教徒への風当たりは9.11以降やはりより冷たいものになっているそうだ。自分の一族の宗派は決定されており(改宗することはできるそうだが)パスポートにもそれが記入されているという。彼女はこれまで自分がイスラム教徒であることをあまり意識しなかったが、あの事件以降意識するようになったし、アルカイダに入ろうかと思ったりもしたことがあったと過激なことを言う。9.11以降、イスラム教徒であるためにいわれなき迫害を受けている人たちは現実的に世界中に多数存在するが、言うまでもなくそれは間違った考えだ。
ハムラビ法典はバビロン第一王朝の王ハムラビによって制定された。紀元前18世紀頃のことだという。一方イスラム教はマホメットによって紀元610年ごろに成立した。ハムラビ法典とイスラム教には何の関係もない。
9.11のテロはアメリカ合衆国を中心とする資本主義のグローバリゼーションへの報復だったとされる。それゆえにハムラビ法典の「目には目を、歯にをは歯を」という復讐法としての性格が比喩として頻繁に取りざたされることになるのだろう。しかしハムラビ法典の趣旨は、無際限で無限の復讐の連鎖を止めるためのものだったという。アメリカ合衆国がアフガニスタンやイラクで行ったことは復讐である。もちろん更なるテロへの抑止だというのが正当化の根拠にはなっているが、それは結果的に復讐の無限連鎖を促す結果になるだろう。
ハムラビ法典の復讐法としての性格は、比喩として凶悪な犯罪への報復にも連鎖している。確かに現在の刑法は頻発する凶悪犯罪の現代的な性格に対応できていないし、とりわけ被害者救済のシステムが出来上がっていないということも言えるかもしれない。しかしここでもハムラビ法典の本来の趣旨は活きている。被害者の報復感情を否定する必要はない。が、それを社会的に認めることは復讐の無限連鎖を肯定してしまうことになるだろう。復讐は、それが国家の行為であれ、個人の行為であれ、認められてはならないと思う。
(注1)現在の非民主的な軍事政権は国名をミャンマーと称しているが、国内外にはそれを認めずビルマと呼ぶ人たちが多数存在している。
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