●2003年9月16日
二重の人格を
生きること
text/キムチ
→ 護法
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どうでもいいことであるが、私は会社員をしながら大学院にも通っていて大学はまだ夏休みである。それも9月で終わってしまうから夏休みの交換日記はできることなら9月中には終わらしたいものだ。しかしながら、大学生を相手にしていると勘違いしてしまうのだが、私は一応会社員もしているので、夏休みなんかほんとはないのである。護法は夜になっても遊びつづけろというが、会社員は夜にこそ遊ぶのである。二重の人格を纏って。
繰り返しになるが、戦争目的規制に対する立場としては、以下の三つの態度があげられる。すなわち絶対的平和主義、戦争限定主義、そして無差別主義の三つである。そこで無差別主義とは、国家に主権を認める以上、戦争をいかなる理由によって始め、終わろうと、それは国家が決めることであり、国家を規制するものは存在しない。国家がはじめる戦争に、国際法によって決定される正しい戦争も間違った戦争も存在しない、その意味で戦争に差別はないという立場である。戦争はすべてが間違っているというのが絶対平和主義であり、国家がその主権においてはじめる戦争に是非はないと主張するのが無差別主義であり、戦争を無差別に評価することにおいてこの二つは趣旨を同じくする。困難は近代において、国家の上位に国家の行動を規制する存在(中世における教会)がなくなってしまったことに由来する。
護法は「絶対平和主義の声があがると、そのしっぺ返しとして無差別主義の声があがる、だから戦争限定主義が現実的な選択だ、という加藤の認識は、現実の政治過程とズレている。」と書いている。
「実際には、日本を見ても世界を見ても、戦争を無差別に肯定する人などほとんどいない。(米のネオコンを除いて。)他国への専制攻撃、つまり防衛目的以外の戦争は国際法違反とされている。しかし、それでも戦争は起きている。これはつまり、ほとんどの戦争は自衛を目的として行われるということだ。いまこれから日本で起きようとしているのも、北朝鮮が攻めてきたらどうするのか、という論理で人々を脅しながら、集団的自衛権を認め防衛のための軍事行動を肯定して、日本がアメリカと共に北朝鮮への軍事行動に参加するという道筋だろう。そこには無差別主義と戦争限定主義との境目などない。」
実際のところ、戦争限定主義が論拠とするのは防衛目的以外の戦争を違反とする論理である。しかし現実に防衛を論拠として幾多の戦争は起こっているのだから、戦争限定主義の批判は無効であるというのである。では、絶対平和主義は、現実に起こってしまっている戦争に対して、何を主張すると言うのであろうか。武器を楽器に持ち替えろということをであろうか。防衛が許されるからと行って集団的自衛が許されるかどうかは別問題であり、反撃や報復は言葉の普通の意味合いにおいて防衛ではない。誰も無差別主義のつもりではなかった、限定主義のつもりで戦争を肯定していたと言うのであれば、アメリカ合衆国の多くの民衆は、平和のためにイラク戦争を肯定しているというべきだろう。民主主義的に構成された国家の主権は誰にも冒すことはできないというのが無差別主義であり、アメリカ合衆国を押しているのはアメリカ合衆国の民衆である。
問題は、国家を認めるかどうかである。しかし、私は、一人の個人であると同時に会社員であり日本国の国民である。私は二重三重の人格を生きている。それでも、その様々な局面で言うべきことは言わせてもらわなくてはならない。そして夏休みであろうとなかろうと遊ぶ時には遊ばさせてもらう。
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