●2003年9月23日
正戦論と
判断停止
text/護法
→ キムチ
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平和主義者の悪いクセとして、空襲だとか強姦だとか、戦争のいちばん悲惨なとこばかり強調するという傾向がある。戦争にだって、もっと楽しいウキウキするような面もあるはずだ。そうでなければ、戦争をしたがる人の気持ちがわからない。
そこで、いま思いつく限りいちばん楽しげな戦争の図をうっとりと夢想してみる。まず日本列島をすっぽり蔽い尽くす防御シールドを張ろう。テポドンや生物化学兵器や劣化ウラン弾が飛んできてもこれで安心。ついでに台風やゴジラも防げるから便利だ。
コタツに入ってミカンの皮を剥きながら、戦争はテレビで観戦しよう。もちろん、正義はわれわれの側にある。悪いのは、圧制の下で民衆を苦しめ、隣国の国民を拉致したりする相手の方だ。基本的に味方は連勝。しかし時には一進一退の手に汗握る展開もあってほしい。血が飛び散るシーンがお好みでないなら、相手国の兵士はスターウォーズの帝国軍のようにロボット然としたコスチュームを着せておこう。時には、どうでもいい戦闘の際など、テレビの前でゲームスティックを使って兵士を自由に操り、作戦に参加することができたらさらに楽しいだろう。
と、ここまで妄想を募らせてみて気がつく。何だ、これって俺たちのいまの生活とほとんど同じじゃん。
そのことに吐き気を催すことから、最初の一歩がはじまる。
昭和のジャーナリスト清沢洌の『暗黒日記』には、1945年元旦の記述として次のように書かれているそうだ。「日本国民は、今、初めて『戦争』を体験している」と。
1945年は終戦の年、米軍の空襲がそろそろ始まりかけている。日本人はそれまでに何年も日中戦争の泥沼を経験してるはず。しかしほとんどの国民はそんなこと何とも思っていなかったということだろう。空襲の危険がわが身に迫ってくるまでは。
いまの俺たちはどうなんだろう。 有事法制が国会を通っても、 憲法9条「改正」が与党の政治課題に上っても、蛙の面に小便みたいな顔してる俺たちは。
すでに起こってしまった戦争に対して絶対平和主義者は何を主張するのか、という問いかけをキムチが振ってくれた。もちろん答は簡単、すべての戦争を止めよと主張するのである。侵略する側も防衛する側も、戦闘を止めろと呼びかける。そして肝心なことは、自国の戦争には一切協力しない。というのが難しければできるだけ手を貸さないことだ。どの国民国家も、国民の協力なしに戦争することはできない。
では逆に、加藤尚武が言う戦争限定主義者は何を主張するのだろう。こちらの戦争は間違っているから止めよ、あちらの戦争は正しいから止めなくてよいと主張するのだろうか。しかし正しい戦争と間違った戦争をどうやって区別するのだろう。そんなことは本に書いてある? しかしそれは、本に書いてあるだけのことだ。
哲学者鶴見俊輔が語る戦時中の体験。日米開戦の日、アメリカにいた鶴見は、ハーバード留学生の先輩で日本の優秀な外務官僚だった知人の宿舎を訪ねる。なぜあんな愚かな戦争を始めたのかと問う鶴見に対して、「では、どうすればよかったのか」と先輩は反問したそうだ。では、どうすればよかったのか。そして、判断停止。判断停止でも、さしあたってわが身は傷つかない。傷つくのは兵士と民衆と女子供だけだ。
戦争限定主義(正戦論とも言う)を唱える加藤らの善意は疑わない。しかし、いかにも賢そうなその手の議論が落ちつく果ては、だいたいいつもそんなところなのである。
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