●2003年9月29日
正しい戦争と
間違った戦争
text/キムチ
→ 護法
|
|
|
|
護法の言うところによればこういうことになりそうだ。いかにも賢そうな加藤尚武らの議論の落ち着く先はいつも、日米開戦を許してしまった日本の優秀な外務官僚の判断停止と言い訳の言葉程度のものだ。「では、どうすればよかったのか。」と。構図的に言えば、一方にいかにも賢そうな加藤尚武や優秀な官僚たちがいて彼らは傷つくことがなく、一方に鶴見俊輔や傷つく兵士と民衆や女子供たちがいる。傷つくことを知らず頭でっかちに教科書に書かれている内容から議論を戦わしているような連中には民衆の痛みが分からないのだ。
加藤尚武はボクシングの選手だったそうだがそんなことはどうでもよく、彼の人格がどうであるかもどうでもよく(多少、見たり聞いたりしたところがなくもないが)、彼に善意があるかどうかもさしあたってどうでもいい。そういう意味では加藤の議論を肯定する理由はなにもない。私は自分たちの考えていることをいくらかでも明確にするために彼の議論の枠組みを借りているだけである。
いかにも賢そうに本でお勉強しているだけかどうはともかくとして、護法が言うのを聞いていると、どんなスキであれ戦争を肯定するような姿勢を見せれば、結果的にそれはすべての戦争を肯定していくことにつながってしまうようだ。なぜなら正しい戦争と間違った戦争を区別する方法などないからだ。そして戦争はすべて間違っているからだ。
いや、ここで二つのことを区別しておこう。正しい戦争と間違った戦争を区別することができないから戦争限定主義は無力であると主張することと、すべての戦争は間違っていると主張することとをだ。現実的に、その区別は恣意的に解釈されてきたし、その解釈への応答自体が各国間のパワーポリティックスであり戦争の歴史であったといえるだろう。その意味で戦争限定主義は限りなく無力に近かったし、いま国連総長がアメリカ合衆国の先制攻撃論を非難し国連への危機感を表明したとおり、それは風前の灯と言っていいかもしれない。
しかし、このこと自体が示しているとおり、正しい戦争と間違った戦争の区別は本に書いてあるだけのことではない。それは評価するにせよしないせよ、幾多の人たちが格闘してきた歴史そのものだ。もちろん大いに胡散臭い歴史である。それでもこの議論はまったくもって無力というわけでもない。なぜなら護法も言うとおり、国民国家の戦争は国民を巻き込まざるを得ず、そのために国民を説得する必要があり、なにがしかの正義と正当性が求められるからだ。これらの戦争を行っているのは「われわれ」国民であるからだ。
この交換日記の当初から感じてきたこと、護法に聞いてみたいと思ってきたことは、反戦論のポジションをどこに設定するのかということだった。私はアメリカ合衆国がアフガニスタンとイラクに対して仕掛けた戦争を間違っていると思う(注1)。しかしすべての戦争を間違っていると主張するポジションをいかに取るかということが私にはわからない。ふたつのことが気にかかっている。まず、すべてのという場合の「戦争」というものをまずもってどう定義するかということ。そしてふたつめに、そうした反戦論が、有効な議論になるのかどうかということだ。
戦争をめぐる議論には、いかにも賢そうなその手の議論だけがあるわけではない。小林よしのりをはじめとするおバカさんな議論もあって、彼は「略奪も強姦も虐殺もあらゆる暴力が承認された状態、平和時の秩序を無秩序に変えるキレまくりの状態が「自然な戦争」なのかもしれない。国民がコツコツと築き上げた蓄財を一気に消費する。そこに快感を見いだす人間の本性もありそうではないか。……大量死を賭けて祭のようなカタルシスを味わう戦争の魅力も人間にとってあるのだと思う。人間の消費と無秩序への欲望をはらみ政治の継続としての戦争が遂行される中で承認された暴力が展開する。(注2)」と書いている。戦争のもっとウキウキした気分は小林の方がよく伝えているかもしれない。小林をおバカさんだと言っていてすむだろうか。加藤の議論をいかにも賢そうなだけだと言っていてすむだろうか。議論はかみ合っているのか、すれちがっているのか?そのこと自体をどうすれば良いだろう。
(注1)さらに、このアメリカ合衆国が仕掛けた戦争はいうところの目的に照らしても失敗していると思うし、したがってアメリカ合衆国はいくつもの意味で恥をさらしていると思う。しかし忘れてはならないがそれは他人事ではない。私たちの国は旗を見せたかどうかに関わらず具体的にこの戦争に荷担している。
(注2)小林よしのり『戦争論』幻冬社。以下のようにつづく。「たまたま日本は政治的に戦争を始め終わらせることに失敗したからこれにこりて「戦争は悪だ」という道徳的な価値判断で結論づけてしまい、戦争という政治上の一手段に近づくこともできぬ、おびえたサルになってしまった。こんな国は日本くらいのものである。戦争の目的も、始め方も、やめ方も国益から考えて政治的に完遂させるのが他の国の常識である。しかし戦争が政治の一局面だとしても戦場という現場で展開される光景は、やはり人間のキレた姿…野蛮性の暴発がままあることは否めず、特に第一次大戦時、空爆や毒ガスなど近代兵器の発達が戦場の悲惨さに拍車をかけたことにうんざりした欧米諸国は戦時国際法で、戦争のルールを一応作った。承認された暴力という戦争の本来性からいえば欺瞞でしかないとわしは思うが、純然たる野蛮に徹しない争いである点では、戦時国際法の理念はおかしなことに私闘より子供のケンカに近いとも言える。戦争にはルールがあることになった。例えば戦争は軍隊と軍隊が戦うものであって、兵隊は殺していいが、民間人の殺傷はいけないのだ。国際法違反である、戦争犯罪である、じつに欺瞞以外の何ものでもない」
このページの先頭へ
|