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そもそもの始まり

 深川と雪野は2年前、同時に我が子をこの少年野球チームに入れた。ちょうど今と同じように体制があらたまって間もない真冬のある日、雪野の妻が親しくしているPTAの役員から電話がかかってきた。その役員の子供が雪野の長男と同級生で、次の週末にその子が所属している少年野球チームの練習試合があるのだが、人数が足りないから雪野の家の子に来てもらえないかと言う。
 めぐり合わせとは不思議なものだ。実はその数カ月前、雪野は次男の誕生日プレゼントにグローブを買い与えた。それは子供にせがまれてというよりは、むしろ雪野自身が子供たちとキャチボールをしたくなったからだった。無性に「したく」なったのである。だから次男の誕生日プレゼントというのは口実にすぎない。当然、長男にも一緒にグローブを買った。そして、自分用も買った。やむにやまれぬ思いとは、ああいうのを指すのだろう。後日雪野は、そんな感慨を持った。
 だが、その衝動的行為には、さらに伏線がある。
 その年、雪野が暮らす都市を本拠にするプロ野球チームが、38年ぶりのリーグ優勝を争っていた。38年ぶり……、その38年前とは、雪野が生まれた年だった。しかもその時、そのチームが本拠にしていた土地は、彼が生まれ育った場所だった。その後経営体制が変わり本拠地を移転し、泣かず飛ばずの状態で38年が過ぎていた。その38年後の年に、雪野の一家は、彼の母の急逝により一人暮しとなった父親の面倒をみるために、実家のある土地に大学入学以来20年ぶりに帰巣したのだった。その彼が出戻った都市とは、はからずもそのプロ野球チームが先に移転した本拠地だった。彼が20年ぶりに帰ってきたその土地で、同じ年に、そのプロ野球チームが今、優勝争いをしている。しかもその前に優勝したのは、雪野が生まれた年なのだ。
 さすがに38年ぶりの優勝の可能性ともなれば、マスコミも騒ぐ。その年、そのチームの優勝の行方は、全国的な注目の的となった。地元では、中心駅にチームの守護神と呼ばれたエースストッパーを奉る仮設神社ができたほどだ。
 ここに引っ越してきてから、雪野はテレビをケーブルにした。本来長年の辛酸を舐めてきた弱小球団であったが、さすがの世間の盛り上がりの中で、50局近くあるチャンネルのどこかを回せば、大抵そのチームの試合中継が見られる環境の下で、雪野は見られない日は録画までして、可能な限りそのチームの試合を観戦した。
 要するに、雪野は端から見ればすっかりメディアに踊らされていたのだ。だが、彼自身の思いは、違った。そのチームと自分を、彼は運命的な関係と位置付けていた。
 なぜ彼はそこまでの思いをつのらせたのか。もしかしたらそれは、実家のある地元に20年ぶりに戻って、初めて自分の名前の表札がついた一戸建てに住み、現実感のないベラボーな額のローンを抱えて、これまではアパートやマンションを転々としてきた彼の一家も、おそらくは余程の異変がない限りこの家に永住するのだろうという思いの中で、つまりは初めて「地元意識」なるものに否応なく向き合わざるをえない状態にあって、少しでも早く地元に順応したいという思いが、彼を一夜漬けのそのチームのファンへと走らせたのではないか――と、最近雪野はそんな自己分析をしている。いわば自分を新しい環境に慣れさせるために、そのチームの優勝争いを利用していたのでないか、と。
 だが、もちろんそんなプロ野球チームとファンとの関係もあっていい。まして地域密着型のサッカーのクラブ・システムに対抗すべく、近頃ローカリズムを強化しているプロ野球としては、彼のようなファンは表彰されてもいいのかもしれない。
 そうも思う雪野ではあったが、しかし、結局みごとにその年日本シリーズまで制したそのプロ野球チームが、その後数年のうちに、大リーグに移籍して華やかな活躍をする守護神をはじめ次々と主力選手が他球団に移り、ついには雪野がもっともチームの中で好きだった徹底的な放任主義を貫く監督までが、その対極に位置する徹底的な管理野球を旨とする監督に交替するに至って、もはや数年前のあの熱狂はどこ吹く風、近頃ではそのチームへの入れ込みもすっかり冷えてしまっているのだった。
 しかし、ともあれそんな事情で、その年の雪野は、もともとプロ野球ニュースぐらいはたまに見る程度のアンチ・ジャイアンツの野球ファンではあったが、確かに即席の「熱狂的」なそれに変身していたことには違いない。
 そんなわけで子供たちを連れてたびたびそのチームの球場に足も運び、また毎日テレビで野球観戦をしている父親を横に見ていれば、子供たちも自ずと野球に興味を示し始める。ナイターを見ながら何かと質問してくる我が子が可愛く、ルールを説明してやったりするうちに、いつの間にか雪野にとって野球が子供たちとの掛け替えのないコミュニケーション・ツールにもなっていることに気づかされもするのだった。
 そんなわけで、次男の誕生日にグローブを買ったその数カ月前、長男の誕生日に、すでに雪野は、自分も子供の頃に楽しんだ、あの懐かしいバンダイの野球盤を買い与えていた。思えば、あの野球盤こそが、自分が今こうして、経歴から言ってどう見ても場違いな少年野球場のベンチに、指導者の立場でユニフォームを着て座っている、そもそもの始まりをもたらしたのではないか、と、ふと思うこともあった。
 子供たちと野球盤で遊ぶようになったちょうどその頃から、雪野はしばしば週末に近くの公園へ行って、家族4人で三角ベースを興じるようになった。ゴムボールとプラスチック・バットを使ったその野球の真似事では、常に雪野が圧倒的なパワーを子供たちの前で披露し、父親としての威厳をここぞとばかりに示した。野球を通して、子供たちの父親への尊敬の念が高まっていくのを、雪野はひしひしと感じた――そんな父親の威厳も、少年野球チームに入ると、経験豊かなよそのお父さんたちの中に埋もれてたちまち綻び始めることも、まだその頃の雪野は知る由もなく……。
 雪野が次男の誕生日にちゃんとしたグローブと軟球を買ったのは、ちょうどそんな三角ベースに物足りなくなった頃だった。その日から、雪野一家の週末は、天気のいい日は公園でキャッチボール+三角ベースと相場が決まった。すでにその頃、ペナント・レースは終わっていて、熱狂した地元チームは見事38年振りのリーグ優勝どころか日本一を果たし、さらに加えて、雪野が帰ってきた地元の都市名をそのまま校名にした高校が甲子園で春夏連覇を果たした後でもあり、雪野の中の野球熱は沸点に達しつつあった。
 そんな精神状態の下で、公園で我が子が返す軟式の白球を雪野がグローブに受けとめる瞬間、彼の肉体は、グローブをはめた左手の平から全身に向かってこの上ない快感が走るのを感じた。そしてそのボールを、全身を使い腕を大きく振って我が子めがけて投げ返す時、また雪野の身体の中にジンとした快感が走る。あぁ、これはいつか見た夢。その夢の中にこうして俺は今いるんだなぁ……。小市民と笑われようがなんと言われようが構わない。こんな誰にも迷惑をかけない確実な幸福の時間が他にあろうか――雪野の家にPTAの役員から電話がかかってきたのは、そんな気分に雪野が浸ってまもなくのことだった。