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 そんな家族こぞっての野球熱の高まりの中でのPTA役員のお母さんからの誘いに、雪野一家が反応しないわけはなかった。
「どうする?」という妻の問いに対して、雪野は気軽に「いけいけ」と答えた。第一、そのPTAの人は、練習試合に出たからといって、チームに正式に入らなくてもいいと言っていた。あくまで数が足りないので、助っ人としてその場限りの参加でも構わないから、というのである。内心雪野は、いかにも文化系のわが子が本格的な少年野球なんかやりたいと言い出すはずがないさ、と思っていないこともなかった。その日の試合は、一生に一度の貴重な体験になるかもしれない……それならなおのこと、ぜひ参加させてやりたい、という思いが、雪野を積極的にさせたのだった。
 当日、小春日和の穏やかな陽光のもと、雪野は家族4人で直接その試合のある小学校へ車で向かった。その小学校は、自宅から車で行けばわずか10分かそこらの場所にあったが、20年前まで地元であったはずの雪野には聞き慣れない名前の学校だった。雪野はそこまで、精細な市内地図を何度も見返しながら、やっとのことで辿り着いた。
 試合開始少し前のグラウンドでは、隅っこで茶髪の若いカップルが、10人に満たないちっちゃな子供たちを相手にわずか数メートルの距離のノックをやっていた。男のほうが打ち、女のほうが子供たちの返球を捕っている。グラウンドの中に入るためには、どうしても彼らの横を貫けて行かねばならないため、雪野は彼らの様子をちらりと横目で見つつ通り抜けて行った。子供たちのユニフォームの胸には「Fires」とマークが入っていたから、 「ああ、多分この子たちのチームだな……」とぼんやり思いながら。
 そこへグラウンドの奥に固まっていた主婦の一群の中で、雪野たちの存在に気付いた一人が駆け寄ってきた。
「雪野さん、ありがとぉ!」
 雪野の妻の肩を抱えて大袈裟な身振りで挨拶したのは、例の電話をかけてきたPTAの役員だった。
「もう、来てくれないかと思ってヒヤヒヤしてたの。さ、一平君、もうすぐ試合が始まるわよ」
 PTA役員であるところのその眼鏡をかけた痩せ気味の女性は、雪野の長男に妙に親し気な声をかけた。さらに、「今そこでノックをしてるのが、三軍の監督さんなのよ」と言って、雪野の女房と子供たちを今通ってきた場所へ引き戻すのだった。
 雪野の妻は、子供たちを連れて小走りに茶髪の二人のところへ近づいていった。
 若い茶髪男に何度も頭を下げつつなにやら挨拶をしている妻を遠目に眺めたあと、雪野は首からぶら下げた望遠ズーム付きの一眼レフカメラを片手で握りながら、グラウンドをぐるり見回した。グラウンドに引かれたラインと、置かれたベースからすると、ちょうどセンターの奥に位置するグラウンドの端に、大きな象をかたどったすべり台(象の鼻の部分がすべるところになっている)を発見した雪野は、そこに向かってグラウンドの真ん中を通ってスタスタと歩いていった。すべり台の金属の梯子を登ると、象の頭の部分にあたる最頂部に、雪野は、まるで合戦の大将のようにどっかと胡坐をかいて腰を落ち着けた。
 雪野にしてみれば、一生に一度かもしれないわが子の晴れ舞台である。良い写真をいっぱい撮ってやろうという気持ちしかなかった。だが、グラウンドに入ってからそこまでの雪野の行動が、少年野球の現場においては、いかに非常識なものであったかを雪野自身が気づくのは、それからずっと先のことだった。今から思えば、あの象のすべり台に陣取った時点で、否、おそらくは入念な整備を終えたフェアグラウンドの中にズカズカと足を踏み入れたその時点で、よくまぁ試合の関係者から注意を受けなかったものだ。それら諸々の行為は、すでにこの世界に入って数年を経ている雪野からしたら、許容しがたいものなのだった。
 象のすべり台はセンターの奥、明らかにフェアグラウンドの中にあった。少年野球の試合は、その日のように小学校の校庭で行なわれることも少なくない。当然校庭にはジャングル・ジムがあったり鉄棒やすべり台があったりする。仮にそれらの設備が校庭の設計の都合上(実際はほとんどの学校がそのケースに当てはまるのだが)フェアグラウンドの中に含まれざるを得ない場合、そうした設備はそこに打球が飛んできた時に思いがけないボールの変化を引き起こすことが多いので、様々な状況を想定した特別ルールが個々に設定されている。ある意味では、だからこそ、そんな特殊なエリアに人が入ることなどもっての外の、神聖な場所なのだった。
 今の雪野なら、わが子の通う学校の校庭で、穏やかに週末の時を過ごそうとしている父娘がいたとして、フェアグラウンドに含まれるエリアに存在する鉄棒でその娘が逆さ上がりでもしようものなら、真っ先にベンチからその場に向かって大声を張り上げるところなのであった。「危なーい! いつボール飛んでくるかわかんないから、そこどいてー!!」と。
 だがその日、望遠レンズを構えて象の頭にどっかと腰を据えた雪野に、その場にいる指導者の誰からも苦情が寄せられなかったのは、今から思えば実に不思議だった。それは、雪野の子が助っ人に入ったチームにしてみれば、入団して欲しいとの思いから遠慮があったとも解される。しかし、その意味で関係のない相手チームさえ何も言わなかったのは、何故か。それはいまだに雪野にとっては謎だったが、曲解すれば、その日の雪野の行動が、そういう注意の範疇からも逸脱するほど非常識だったから、言葉もでなかったのかもしれない、と今の雪野は邪推する。
 まぁともかく、その日雪野は、試合が始まると、象の頭から自分の息子の貴重なる映像を思惑通りバシャバシャと撮りまくった。雪野の息子は、その日ライトを守った。打順は8番。なにしろ雪野の子、それからもう一人の助っ人の子を加えてやっと9人なのだから、当然全員、フル出場である。初めのうち雪野の子、一平は、正式な野球のポジションなどついたことがないから、その場でどう振る舞ったら良いものか戸惑っている様子だった。だいたい改編されたばかりの中低学年の三軍の試合で、そうそう外野に打球が飛んでくるわけもないので、手持ちぶさたの一平は、グローブでもう一方の空いた手を包み、両足を交差させながらブランブランと左右に揺れているかと思えば、グローブをはずして宙に放り投げたりしている。だが、その様がまた雪野には可愛くて、シャッターを連写する。ふと見ると、レフトを守っている一平と同じ立場の助っ人の子はというと、しゃがんで砂いじりをしているではないか。
 でもそんな彼らを、ベンチにいる茶髪の監督は、ほとんど何も注意しなかった。せいぜいたまに、「おーい、いつボールが飛んでくるか分からないから、危ないからこっち見てねー」というぐらい。「おーい、眠っちゃだめだよー」と声をかけた時には、周囲の応援のお母さんたちに大受けで、どっと笑い声が起きた。
 だが、ある回に雪野のチームのピッチャーが四球を出してランナーが一塁に立った時、一塁へ、よせばいいものを、ピッチャーが牽制球を投げた。当然ながらというように、ボールは大きく塁を逸れ、相手チームのベンチの怒声に弾かれるようにランナーは二塁へ走ってセーフ。その間、相変わらずブランブラン揺れているわが子を見て、雪野は切れた。
 象のすべり台からすばやく降りた雪野は、あろうことかインプレー中の外野を突っ切って、しかしさすがに一塁線のラインの外まで出て、そこから一平に向かって声をかけた。
「外野手は打球を追っかけるだけじゃだめなんだぞ。今みたいな内野が逸らしたボールをカバーするのも大事な役目なんだからな!」
 それを聞いた雪野の子は、意外にも雪野の言う意味がすんなり飲み込めたらしい。その直後、今度はピッチャーがバッターのお尻にボールをぶつけて死球を出し、また一塁にランナーが出ると、再びピッチャーは一塁に牽制球を投げた。よっぽど牽制球が好きな子らしい。そして、今度はいいところにボールが行ったのだが、可哀想にそれを一塁手がポロリとやった。ボールはいったん入ったクローブから弾かれるような形でライトのほうにコロコロと転がっていく。そのボールを、なんと一平がダッシュして拾いに行ったのだった。でも、拾ったはいいがどこに返していい分からない彼は、しばらくボールを握ったままその場に立ちつくしていた。ところが、相手ベンチの「戻れ戻れ!」の大声が幸いして、塁を飛び出したランナーは慌てて帰塁した。
 結果的には、一平のカバーが大成功、というわけで、茶髪監督の「ナイス・カバー、一平君!」の声。周りの応援ママたちもその声に促されるようにいっせいに拍手が起こった。
 無邪気に照れ笑いを浮かべるわが子。それを見つめる雪野にしてみても、直前の自分のアドバイスが効を奏した思いなので、内心自分が誉められたような、まんざらでもない気分に浸っていた。
「俺って、野球教えんの上手いんじゃないか、ひょっとして……」と、雪野の勘違いの芽が、その時ちょろっと顔を出しかけていたということは、あり得ないこともなかった。
 そんな家族こぞっての野球熱の高まりの中でのPTA役員のお母さんからの誘いに、雪野一家が反応しないわけはなかった。
「どうする?」という妻の問いに対して、雪野は気軽に「いけいけ」と答えた。第一、そのPTAの人は、練習試合に出たからといって、チームに正式に入らなくてもいいと言っていた。あくまで数が足りないので、助っ人としてその場限りの参加でも構わないから、というのである。内心雪野は、いかにも文化系のわが子が本格的な少年野球なんかやりたいと言い出すはずがないさ、と思っていないこともなかった。その日の試合は、一生に一度の貴重な体験になるかもしれない……それならなおのこと、ぜひ参加させてやりたい、という思いが、雪野を積極的にさせたのだった。