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 一平がチームに入って一と月ほど経った日曜日、また、よその小学校で練習試合があるというので、春めいた好天に誘われて、雪野は妻子を連れて行楽気分で観戦に行った。どこの家庭も考えることは同じなのか、この日はいつもの顔触れのお母さんたちのほかにも、夫婦や幼い子たちの応援姿が目立った。
 だが、ベンチには、やはり大人は茶髪監督とその妻しか見当たらず、ユニフォームに身を固めた指導者が3、4人居並ぶ相手チームと比べると、いかにも淋しい風情。相手チームは子供たちの数も多く、まだ幼稚園児のように見える小さな子が数人、ダブダブのユニフォームを着てベンチの周りを駆け回っているかと思えば、長い髪を束ねた女の子らしい選手も混ざっていた。
 ほとんどのチームは親が指導者だから、子供の多いチームに指導者が多いのも当然と言える。したがって、いまだに選手が9人ギリギリの丘神ファイヤーズ三軍に指導者が少ないのも致し方ないが、それにしても、彼の記憶の限りでは、何回か練習試合を見てきた中で、指導者が監督ただ一人というチームも、さすがに他には見当たらなかった。
 この日の試合は、ギャラリーが多かったせいか、わが丘神ファイヤーズも奮起した。子供たちの応援の声も終始ノリノリで、つまらない凡エラーも少なく、わずかな点を取ったり取られたりの締まった展開が続いた。最終的には、5回までやって3対4の僅差で惜しくも敗れはしたが、好ゲームに、応援に来た家族の表情も一様に満足げだった。
 雪野家族がグラウンドをあとにしようとした時、一人のお母さんが駆け寄ってきた。
「あのう、一平君のパパさんですよね」
 30代後半ぐらいの品の良さそうな女性だった。以前雨の中一人で応援に来た時、母親たちの「怖さ」が身にしみた雪野の警戒心を、ホッと和ませる物腰の柔らかさがあった。とはいえ、いつも家庭で「お父さん」「お母さん」で通している雪野にとって、「パパさん」という呼ばれ方は、大いに抵抗感があった。そんな複雑な心境を胸に、「はあ、そうですが……」と口の中でもごもご言っていると、すかさず、後ろ手にしていたその女性の両手が雪野の前に突き出された。
「あの、これ、差し上げますのでどうか受け取ってください」
 そう言ってにこやかに両手を差し出す女性の姿は、もしこの指先に繋がるものがハートマークのシールで閉じられた白い封筒ででもあったりしたら、あぁ懐かしや、四半世紀前に現実か夢の中かどちらだったか忘れたが、とにもかくにも遭遇した記憶のあるラブレターによる愛の告白シーンではないか。早春の爽やかな風に梢を揺らす校庭の木陰のもと……、だが残念ながら雪野の目の前にあるのは白い封筒ではなく、ネイビーブルーの野球帽なのであった。
 白い封筒なら黙って受け取るところであるが、この場合意味するものが、愛の告白以外の何であるかが十分に察しのつく雪野としては、掌を横に振りふり慌てた様子でこう答えるほかなかった。
「いやいや、とんでもない。私、野球全然分からないもので……」
 しかし、品の良い人妻は、にこやかな表情を一瞬も崩さず続けるのだった。
「あらぁ、野球なんか知らなくてもいいんですよぉ。ただ、たまぁに遊びに来て、ご自分のお子さんとキャッチボールでもしてくれれば、それでいいんですから」
「いえいえ、そんなそんな。ほんとに知らないんですよねぇ……」
 なおも抵抗をする雪野の胸に、品の良いにこやかなお母さんは、グイッと野球帽を押し付けくばかりに迫ってきた。
「いいんですよぉ。遊びなんだから。可愛いですよぉ、子供たち。ねっ、可愛いでしょう?」
「えぇ、まぁ……可愛いですねぇ……」
 可愛いかと聞かれて可愛くないとも言えないので、あたふたしながら同意すると、その一瞬の隙を突いて、品の良いお母さんは畳み掛けてきた。
「ほぉら、ね。だからいいんですよ。たまぁ〜に、遊びに来るだけで。どうぞ、よろしくお願いしますね。一平君も、きっと喜ぶわぁ!」
 となりで雪野の妻は、「し〜らない」っという表情で、事の成り行きを眺めていたが、
「よかったわぁ、雪野さん。若いお父さんが手伝ってくれて、きっとみんな大喜びよ。どうかよろしくお願いしますね」と、話を振られると、
「えぇ、はぁ、こちらこそよろしくお願いします」などと、頭を下げる始末なのだった。
 結局、それにつられてついつい雪野も頭を下げてしまい、でも、「いやいや、もう、全然若くないんですけど……」と、補足するのも忘れなかった。
 ともかくそんなわけで、なんとなく受け取ってしまった野球帽を胸に抱えて、雪野は小学校を後にした。帰り際、グラウンドの隅で、もう一人別のお父さんが同じように丘神の真新しい野球帽を他のお母さんから差し出されて、同じように懸命に手を横に振って断っている姿が目に入った。だが、歩きながらしばらく様子を見ていると、その人物もやがて根負けした表情で帽子を受け取り、奥さんと並んでペコリと頭を下げていた。
 春の兆しに満ちた晴天の日曜日、この日は、どうやら絶好の「お父さん勧誘」の日であったらしい。
 その夜、テーブルの上に置いた真新しい帽子を眺めながら晩酌をやっている雪野の家に、チームのお母さんから電話があった。受話器を置いた妻が雪野のほうを向いて言った。
「ねえ、あなたもスポーツ傷害保険に入らなくちゃいけないんだって」
「そうなの? なんだかひどく大袈裟だなぁ。たまぁに、キャッチボールの手伝いすりゃいいだけなんだろう?」
 雪野はちょっと気が重くなるのを感じたが、しかし、目の前に置かれた子供と同じ真新しい野球帽を見ると、少し嬉しい気分にもなった。
「おぉい、佳子。ちょっと一平呼んでよ。一緒に帽子かぶって記念写真とろうかなぁ」
「もう、ベッド入っちゃったわよ。一緒に帽子かぶる機会なんて、これからさんざんあるんじゃないの?」
「それもそうだなぁ……」
「あなたもいい加減に寝なさいよ。飲みすぎじゃない?」
「そうかなぁ……」
 自分用の新しい野球帽を前に、ちょっと高揚している雪野だった。
「あ、そうだ。庇の裏に名前書いとこう。おーい、佳子。サインペンとって来てよ。油性のやつね!」

(つづく)