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 一平が入団を決めた翌週末の日曜日、その日は朝から雨だったが、やはり練習試合があるというので、こんな天候の下で頑張っているわが子の感動的なシーンを激写すべく、またもや望遠ズーム一眼レフカメラを首からぶらさげて、雪野は試合会場の小学校へと車で向かった。雨の中、下の子を連れて行って風邪でもひかせたらコトだからと、妻は次男と家に残った。
 とても寒く、しかもカメラが濡れてはまずいので、かさばるカメラを中に入れた状態で、丈の長いグラウンド・コートのジッパーを目一杯上まで締めた格好で、雪野はノコノコと小学校の中へ入っていった。ちょうど正門を抜ける時、向こうから歩いてくる丘神のユニフォームを着た目付きの鋭い細身の中年男とすれちがった。中にあるカメラのせいで奇妙に腹を出っ張らせて、傘を差して学校の中へ入ってゆく雪野が余程その場に不似合いに見えたのだろうか。すれちがいざまのその男の自分に向けた一瞥が、雪野にはやけに冷たいものに感じられ、一瞬、ここへ来たことを後悔した。
 グラウンドに入ると、ちょうど試合が始まるところだった。雪野は例の茶髪監督の後ろに並ぶ応援ママたちの端からちょっと離れて立った。母親たちの視線は、今しも試合が始まろうとしているグラウンドに釘付けだった。そのうちの数人がチラッと雪野の顔を見たものの、「誰、この人?」という感じで、挨拶もない。雪野は元来、挨拶をしない人間には挨拶をしない主義なので、彼もまた無言で、彼女らの横に立った。ざっと見渡した限りでは、今日は雪野の子を誘った例のPTAのお母さんは来ていないようだった。
 この日の試合、一平はまた8番ライトで出場したが、別段目立った活躍をすることもなく、結果は18対0でまたしてもわが丘神ファイヤーズが惨敗した。
 特にそんな試合だったからというわけではない。だが、どういうわけかこの日雪野は、持って行ったカメラのシャッターを押さず仕舞いに終わった。撮影を忘れるほど試合に夢中になっていた、というわけでもない。何度かは、わが子がバッターボックスや守備についた時に、シャッターを押そうかな、と、コートの膨らみに手を持っていった。だが結局、ジッパーを下ろすことはなかった。いや、それは、「できなかった」と言うほうが正確だ。
「寒かったから」それに「片手に傘も持ってたし」……それは理由の一端として挙げられないことではなかった。けれども、なにかもっと大きな理由があるような気がした。それは、その場の空気とでも言ったらいいのか、特に、雪野の横に居並ぶあの母親たちの。
 散々打ち負かされている状況で、チャンスと言えるチャンスもない。得意の黄色い喚声をあげたくともあげられず、ただじりじりしつつ戦況を見詰める応援ママたちの横に立ちながら、たとえ自分の子がバッターボックスに入ったからといって、呑気にカメラを向けられようか。シャッターを切った瞬間に、横に並ぶママたちに、ジロリと一斉に睨まれそうで、それが怖かったのだ、たぶん。さりとて、それを避けるべくいまさらその場を離れて、ただ写真を撮るためだけに別の場所に移動するのも、それはそれで顰蹙を買いそうなムードが漂っているのだった。
 初めて足を運んだ前回、ゾウのすべり台の上から「お客さん」として試合を見ていた時にはまったく感じられなかったこの試合中の空気。あまりにも不甲斐ないプレーの連続で、凡ミスに苦笑で済まされないムード。初めのうち、大きな声で叱咤激励していた茶髪監督も、この日はだんだん声が小さくなってゆく。ひょっとして彼も、背中のお母さんたちから放たれる空気に感染しているのだろうか。
 雨脚がだんだん強くなってくる。こんな天気も、この空気に影響しているのかもしれない。雨で手が滑って、わがチームのピッチャーはますますコントロールが利かなくなってくる。4回裏、後攻の丘神が三者凡退で終わって訪れた最終5回表の守り、フォア・ボールとデッド・ボールの山がいよいよ続く。もはやすっかりピッチャーの一人相撲になってきた。守備につく他の幼い子供たちが、この悪天候の下で、ただじっとグラウンドに立っているだけで、ボールも飛んでこない状況に集中できるわけもない。時々、力なくベンチから飛ぶ「おーい、声出せよぉ!」の監督の声も、もはや効き目がない。数人の子が、「バッチコ〜イ……」と弱々しくいっぺん反応して、その後が続かない。
 またしてもフォア・ボール。満塁押し出しで最後の18点目が入った時、突然雪野の斜め後ろで、耳をつんざく絶叫が。
「なによ! だらしないわね!! 頑張んなさいっ!!!」
 びっくりして雪野が振り返ると、あのPTAのお母さんだった。眼鏡の奥から涙が吹きこぼれて、顔はぐちゃぐちゃである。どうやら、ピッチャーは、その人の子供らしかった。振り返る雪野と目が合ったお母さんは、涙で濡れた顔を隠そうともせず、「すみません、すみません」と、雪野や、さらにその向こうに並ぶお母さんたちのほうへ何度も頭を下げる。
「まあ、まあ。しょうがないですよ、こんな天気じゃ……」とかなんとか、すぐそばに立つ雪野は言ったような言わないような、とりあえずお母さんを落ち着かせねばと、内心苦笑しつつもその場をとりなそうとしていた。
 マウンドに立つ子供は、母親の声がはっきり耳に届いたらしく、ますます精神が動揺して、顔を真っ赤にして今にも泣き出しそうだった。
「タイム!」
 それまで、今日はその子と心中しようと決心していたのか、あれだけ点を取られても立ち上がらなかった茶髪監督が、ようやくその時、大声でタイムを掛けた。
 ゆっくりマウンドへ向かう監督。すると、その後を主審もホームベースからマウンドへ駆け寄っていった。しばらく、監督と主審が、その場で腕時計を見たり宙に掌をかざしたりしながら話していたが、次にせわしくなく主審は相手チームのベンチへ走っていき、相手の監督と二言三言交わし、相手が大きく頷くやいなや、
「集合!」
 高々と上げた両手でバッテンを作りながら、主審がグラウンドに向かって叫んだ。
 どうやら、時間も押してきたし天気も天気なので、そこで試合終了になったようだ。
「やれやれ……」ほっとして雪野は心の中でつぶやく。その時の主審の姿が、どんなに頼もしく見えたことか。
 ずぶ濡れになりながらホームベースに並ぶ子供たちの姿を見届けると、雪野は、まだ涙で顔を崩しているPTAのお母さんにだけ軽く会釈して、その場を足早に立ち去った。
 校門に向かう途中、また目付きの鋭い細身の、黒々と日焼けした男とすれ違った。だが、今度は先ほどより穏やかな表情で、白い歯見せて一応笑みらしきものを浮かべ雪野に軽く会釈してきたので、雪野も歩きながら会釈を返した。あの笑みはなんだったのか? この日の試合の顛末を共有したいと媚びする苦笑だったのか? いずにせよ、その男が、わが丘神ファイヤーズの「代表」であることを雪野が知るのは、もうしばらく後のことだった。
 雪野はその晩、悪天候の中で最後まで頑張っていた息子を何度も誉めてやった。と同時に、女房には、あの居並ぶ応援ママたちのただならぬ空気、そしてその後に起こったPTAママのハプニングを、事細かに伝えた。雪野の妻は、そのハプニングが見られなかったことを、いつまでも惜しがっている。