檸檬の花が咲いている。
白く星のように花弁を広げたそれは、柑橘特有の清々しい芳香を放ち、傍らで佇む僕の鼻腔を擽る。
たった二週間前には、まだ蕾ばかりだったというのに、今では正に、触れなば散らんといった風情だ。しかし、紫がかった桃色をしていた蕾も、それはそれで趣があった。遠目から見ていると、花茎がないことを除けば、その先端は僕の好きな
素馨のそれにも似て、ぷくりと丸く膨らみ今しも、ポン、と音でも立てて開きそうな様で愛らしかった。今年は生り年なのか、枝々に
犇くほどの花をつけ、見る度に実りの時に思いを馳せ、密かに心躍らせた。
木守りの積りでもないが、去年取り残したままになっていた、黄色い実を暫く眺めていたが、さすがに初夏もそこまでやって来ているので、
捥いでしまったほうがいいだろうと手を添えたが、手折ると枝を傷めてしまいそうな気もして、先ずは鋏を取りに行くことにした。
すぐ傍のベランダに細ごまとした園芸用品を置いてあるのだが、取りに行ったついでにそこに紛れて隠れている、到来物のインスタントコーヒーの小さな空き瓶も持って来た。僕専用の灰皿で、底に少しだけ水を入れてある。僕は、灰が飛び散って灰皿の周りを汚すことを極端に厭うので、他の場所に置いてある灰皿も空き瓶を使い、その全てに水を入れてある。灰を落とすと、小気味好くチュンと音を立てて沈む。用を終えたら潔く消えてしまうところが、至極気に入っている。
僕も、こう在りたいと、思っていたりする。
実に十数年も禁煙していたというのに、また数ヶ月前から吸い始めてしまった。
本当のところを言うと、吸い始めてしまったのではなく、今日からまた吸うのだという強い意志を持って、再び吸い始めることにした。かなりのヘビースモーカーだったので、禁煙を始めた当初は禁断症状に苦しんだが、近年では吸いたいという欲望も全くなくなっていたにも係わらず、と言うよりは、周りの愛煙家の煙を文字通り煙たく思い、煙草呑みの傍を離れた途端、髪や服についた臭いに顔を顰めるほどであったのに、だ。
長らく忘れていたことだったのに、禁煙自体が自分の為ではなく、他の誰かの為であったという過去の経緯を思い出したら、そのことに無性に強い反発と虚しさとを覚えてしまい、禁を犯さずには居られなくなってしまっていた。もう、善い人の振りをすることにも、顔色ばかり窺うことにも、疲れてしまったのだ。
自分のしたいことを我慢し、人の意見に迎合するばかりでは、誰の人生か。
高が煙草のことで、僕は生きてきた殆どを、棒に振ったような気になってしまっていた。
在りのままの僕を、僕として、認めてくれないのなら、それでもいい。
だから、僕は、僕として、僕のために、僕の生きたいように、生きていくだけ。それだけ、だ。
自分以外のことなど、最早どうでもよくなっている。
小瓶を提げて歩きながら、胸ポケットから箱を取り出すと、一本引き抜いて口に咥えた。
いつまで経っても変声期真っ最中のような声でなければ、鼻歌のひとつでも出そうなほど、気分がいい。そうだ、歌う代わりに、ステップを踏もう。そういや、長らくCDを聴いていないなあと思いつつ、クレオパトラの夢のテンポでリズムを刻む。だんだん、ハイテンションになって来て、大した距離でもないのに、サンダル履きで練り歩く。パウエルのCDから聞こえてくる、呻吟のようなスキャットのような声を自分の声に置き換えて、パラ、パ、ラパパ、ラと唇だけを動かす。
家にいる僕は、まるで唖者のようじゃないか、全く。
鋏を刃先から、ジーンズの後ろポケットに無造作に突っ込むと、前ポケットの底を漁り、取り出した使い捨てライターで煙草に火をつけた。一服目を、肺の奥深くまで吸い込む。
煙草を吸う時は、なるべく鼻で呼吸をしないようにしている。再び吸い始めるようになって気が付いたのだが、思いの外鼻毛が伸びるようになった。これは、どうにも頂けない。健康に対してはなおざりでも、身嗜みについてはそれなりに気を遣う。第一、鼻毛切りは至極面倒だ。
口を窄めて、空に向かって煙を吐いた。
そよと吹く風に、煙はすぐに形を有耶無耶にしながら流れて行ってしまった。
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