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 鋏を取りに行ったものの、煙草を吸い始めた所為で作業を後回しにして、そこに置いてあるポリプロピレンか何かの合成樹脂で出来ている椅子に腰掛けた。安物の椅子だが、意外と快適である。凭れて、足を投げ出すと、咥え煙草のままで、うんと伸びをした。柔らかな風が、気持ちいい。
 庭の其処此処に置いてあるこの手の椅子は、花樹の観賞や、僕の一服に使うためのものだ。一服のためだと思っているのは、僕だけなのだが。
 灰が長くなってきたので、灰皿の蓋を捻って開けていたら、突然、クマバチが頭上を掠め、僕は慌てて首を竦めながら、蜂の行く手を目で追った。危ねえ、と胸の裡で呟いて、何事もなく行ってしまう蜂を見送りながら、ふと思いつき、The Flying of the Bumble-Beeのリズムを足で取ってみた。
 アップテンポの16分音符を足で刻めば、次第に体もスウィングしてくる。頭の中では、ピアノではなくリンドベルイのトロンボーンが超絶技巧でメロディを鳴り響かせている。今の気分は、こっちだから。全く以て、彼は天才だよな、とまた胸の裡だけで、呟く。
 
 僕は決して、音楽が嫌いな訳じゃない。
 子供の頃は、いつも歌を口遊んでいた。さすがにこの曲は口遊むような曲ではないが、歌だって歌いたい。ただ、声が上手く出ないだけなのだ。カラオケで友人たちに、お前も歌えと促されても、歌わないなら罰ゲームだと苛められても、変声期を迎えてからは、一度も歌ったことがない。まあ、1オクターブほどしか声が出ないんじゃ、どうしようもないのだが。
 望んで始めたホルモン治療だが、普通、声が落ち着くといわれる時期を過ぎても尚、思春期の少年のような声のままで、一生、変声期は終わらなさそうな気配も漂い始め、これには辟易としている。
 それに、夫は僕の嗄声が、厭で厭でたまらないようだから、尚更のこと家では上手く声が出せない。
 結局僕は、自分のやりたい通りには、やれていない。
 
 今日は、実に長閑な休日だとひとり悦に入り、また煙草を吹かす。
 根元まで吸い切り、また9mgタールを摂取しちゃったな、などと思いつつ、灰皿の蓋をしっかりと閉めて漸く腰を上げた。
 ずっと噛んでいるガムが味気ないが、手元に持っていないので我慢する。

 煙草は吸うが、煙草呑みの口のやに臭さは我慢ならない。脂臭いくちづけなど、以ての外だ。
 仕事関係の男どもときたら、あの脂塗れの口で平気でがはがはと息をしながら喋りかけてくるが、一体全体どういう神経をしていることかと、呆れ返ってしまう程だ。あんなに臭い口で女房や彼女にキスをしているのだろうか。あの口を、舌を、女の体に這わせているのだろうか。僕には信じられない。

 女の体に、脂色をした臭い唾液の痕が幾筋も出来ているところが、脳裏に浮かんで、ぶるっと頭を振った。僕には、到底無理な話だ。僕は、臭い物が大嫌いだし、自分の所為で人を汚すことなど、金輪際したくない。だから、用意周到な僕は、いつ何時くちづけをせがまれても大丈夫なように、一日中ガムを噛んでいる。そのような需要があるかどうかは、全く以って謎であるにも係わらずだ。
 それとも、そういう輩は、うちと同様、くちづけなどうにしなくなっているのだろうか。
 くちゃくちゃと口を動かしながら、檸檬の樹に近づくと、花びらに鼻が触れる程くっ付けて、匂いを嗅いだ。煙草の臭いに少し負けているようだが、やはり、香しい。
 思い切り、胸に吸い込む。何度も吸い込む。飽きるほどに堪能すると、やっと作業に取り掛かった。
 
 実を掴み、茎に鋏を入れる。たちどころに、芳烈な香りが漂った。
 甘い花の香りとは一線を画する、刺激的な香りだった。正に、檸檬の香りである。
 ぐいぐいと胸の奥底まで届いて来てくる香りは、それは期待に胸を膨らませたかと思えば、不安に苛まれるような、その二つが綯い交ぜになり、遣る瀬無ささえ感じさせる類のものだった。
 まるで、大昔に恋をしていた頃の気分を彷彿とさせるような、とでも言えばいいのだろうか。
 
 何故か、股間がずくんと脈打つように、疼いた。
 檸檬を右手に持ち替えると、左手で股間を揉みしだいた。

> 3.

2009年

7月26日号掲載

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