マサキを見ると、想い出す。
最近では、人気がないのか余り見ることのなくなったそれは、僕が子供の頃には生垣によく使われていた。初夏には艶やかに萌えるような葉が美しく、冬のその実は、
爆ぜると中から朱色をした種子が覗き、子供心にその変わった形に惹かれ、よく千切っては皮を剥いて遊んだものだった。また、それに限らず、夏が近づき始めると、そこいらの草むらや、生い茂る木や、水辺を見るに付け、虫たちを相手に遊び回っていた頃を、想い出す。決していい想い出ばかりではない、その頃のことを。
幼い頃の僕は、虫や、カエルなどの生き物が、非常に好きだった。
ひと頃は、毎日原っぱを駈けずり回っては、捕まえることを日課としていた。おさげを揺らしながら、虫たちを追いかけて走り回っていた。
近所の年上の男の子に教えられて、鳥もちでセミを捕まえた事もあったが、あれは一度やって懲りてしまった。まず、蝶などと違い木の高い位置に居たりするから、長い竹の先に鳥もちをつけて振り回すのだが、非力な僕にはそれは大変であったし、鳥もちが羽にくっつくと剥がすのに一苦労で、幼かったからか不器用だったからかは不明ながら、大概失敗して羽が?げたり折れたりしてしまい、苦労が水の泡と化してしまうので、がっかりしたからだ。それに、何より手に付いたそれは、ねばねばとして不快で、また何故か髪や服にも付いてしまい、母の、避雷針も避けて落ちるほどの雷の原因になったので、鳥もちでの捕獲の二度目はなかった。また、硬い体はあまり好きではなかったので、それ以上セミの捕獲に興味が湧くことはなかった。それよりは、素手で捕まえられて、感触のよいカエルやアオムシ、イモムシの類に惹かれていた。美しい形をした蝶よりも、不恰好な虫を好んで捕まえた。
今は僕、と一人称を名乗っているが、僕のややこしい性自認はこの頃育まれたものなのかも知れないと密かに思っていたりする。先天的か、後天的かという問題は僕にはよく分からないので、それはさておき、僕は女の性器を付けて母の股から生まれ落ちたにも拘らず、三、四歳頃までは坊ちゃん刈りにされていた。のちに母に聞いたところによると、いつも母お手製の、父のお古を編みなおした紺や茶のセーターなんかを着せられていたし、ずっとズボンを履かされていたから、散髪屋が男の子と間違えてそんなことになったが、よく似合っていたから、数年間そのまま散髪屋に任せていたということらしい。
僕は、両親にとって一粒種である訳で、また、女の子が生まれて非常に嬉しかったと語るにも拘わらず、何の抗議もしなかったというのは、世間一般の感覚に照らし合わせてみると、かなりずれていると感じるが、そう思うのは僕だけだろうか。しかし、まあそれはよい。出来ればそのまま育ててくれたら、このようにひねくれ、一筋縄でいかない性自認に育つこともなかったかも知れないのだから。しかしそれも、ある日突然思い立ったような母の意思で、僕はまた女の子に逆戻りしてしまうことになる。急に髪を伸ばし始め、幼稚園から小学校に掛けて、数年間一切髪を切ってもらえなくなっていた。いつものことだが、僕の意向などは、全く聞き入れてもらえなかった。母の意見は絶対だった。
着る物といえば、やはりお手製の、しかしその頃にはふわりとしたワンピースや、刺繍や飾りの付いたブラウスにスカート、極めつけは幾重にもフリルの付いたソックスといった、正に女の子の正統ともいえる服しか着せてもらえなくなっていた。否も応もなかった。僕は、混沌の中を
揺蕩うこととなる。
マサキは、幼い頃住んでいた界隈にあった。
母がまだ町工場に勤めていた頃のことで、近所の家内工業というのだろうか、自宅の一部が工場になっている、小さな職場だった。ニット製品を機械編みする工場で、母はそこの二人居る職工のひとりだった。工場は、細い路地を入って行くと在った。人が身を
躱して辛うじて擦れ違える幅の未舗装の道で、人が踏まない辺りは年中草が生えていた。また、北側の玄関はただでさえ日当たりが悪い上、どぶが家の前を通り、風通しが悪いせいか年中じめじめとした一角で、何時行っても陰鬱な雰囲気を漂わせていた。夏はそのどぶの臭いが最悪で、澱んだ水に浮くあぶくや滓も、見るにつけ不快感が増し、僕は息を止めて家々の前だけに渡してある羽目板を、足早に跨いで通ったものだった。
ただ、西側に植わっていたマサキの生垣だけが、その寂れて色を失くした風景を、ぱっと輝くように明るくしていた。
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