今年の寒さは記録的だ。
カイエは、雑踏のなかで、サイフを狙っていた。眼の前の、ジーンズの後ろポケット。カイエは着衣の人間からスリをするのは、初めてだった。施設を脱走して、汽車に乗り、フックに掛けてあるコートから、サイフを盗みながらここまできた。
施設のことはおもいだしたくない。カイエは丸坊主の頭に寒風を受けながら、無造作にポケットに突っ込まれているサイフを眺めている。こんなに無防備なのか、『外』の人間は。施設では、鍵は職員の腰のベルトにくくりつけられていた。
カイエはサイフに手を伸ばした。ビン、と衝撃があった。サイフはジーンズに、ほそい鎖で留められていたのだ。カイエがそれを理解する前に、ジーンズの主はこちらを振り向き、カイエの右手を掴んだ。もの凄く婀娜っぽい男だった。染めない長い髪を、首の後ろで束髪にしている。
「おい、おまえ、誰のサイフだとおもってんだよ。」
「僕の、昼ご飯、」
「なにを云ってんだ。オレ様のサイフに手を出すとは、いい度胸だな。」
「僕、今、腹ペコってて、」
「理由なんか訊いてない。だ、れ、の、サイフだとおもってんだ。」
「僕、ファーストフードはキライで、」
「この野郎。オレは警察なんて云わないぞ。カラダで払ってもらうからな。」
「え、え、」
カイエはそのまま引きずるようにして連れられていった。引きずられるのには、慣れていた。施設では、カイエは注射のたびに引きずられていた。
「あんた、名前は?」
「おまえから、名乗れ。」
「僕は、カイエ、ナンバー九五四二〇八八。」
「ふざけるな。」
「ふざけていないよ。僕は、カイエ、九五四二〇八八。
「ふん。」
長髪の男は鼻を鳴らした。
「オレは、コフィ。もちろん、おまえと同じで、本名じゃない。珈琲が好きだから、オレを知っている連中はコフィと呼ぶ。」
「僕は本名だよ!」
カイエは必死に叫んだ。通行人が数人振り返った。
「ああ、わかったわかった。おまえ、いくつ?」
「十六。」
「学校は?」
「施設。」
「この野郎、」
「ヤダ、やめて、殴らないで、」
カイエは怯えて片腕で顔を庇った。
「誰も殴らねえよ。そういや、おまえ、アザだらけだな。どうした?」
「あんたには関係ない。」
「おまえな、自分の立場を考えろよ? オレは警察にいってもいいんだぜ。
「警察は駄目だよ。施設に戻される。」
「ぢゃあ、素直に応えろ。学校は?」
「いってない。」
「誰に殴られた?」
「施設のスタッフ。」
「ふん。」
それきり、コフィは黙ってカイエの手を曳いていった。カイエは大人しくついていった。昼食を食べさせてもらえるのだとおもっていた。カイエは軽い精神遅滞だった。施設では、くるくると呼ばれていた。施設には、くるくるの子供しかいなかった。
2008年10月6日号掲載