カイエは夢中でペンを動かしていた。カリカリという音と、たまに冷蔵庫のうなる音がするだけで、静かな室内だった。ブランカとブラウンも、熱心にカイエの眼を通して惑星を眺めている。

 スーは、毎朝やってきて、食糧を置いていって呉れる。

「どうせなら、ホットケーキにして呉れないかなあ。僕、それ以外は食べたくないんだ。」

「カフィもそうだったわ。わかった。明日から、冷凍ホットケーキを持ってくるわ。ところで、きみは、なにをしているの。」

「僕が死んだらわかるよ。」

「きみまで死んだら、あたしはどうすればいいの。」

「ビー玉を覗くといいとおもうよ。ビー玉は、ひと粒あれば、何時間でも旅行できるから。」

「きみはやっぱり、くるくるね。」

 カイエは返事をしなかった。スーは出ていった。

 ビー玉名所図が完成したのは、夏の終わりだった。カイエは心からホッとした。これさえあれば、誰もが、何処へでもいける。地図には番号を振り、ビー玉を仕舞った仕切りの順と合わせた。

「これだけが、僕のオリヂナルの仕事だな。」カイエはつぶやいた。

「カイエの絵があるぢゃないか。」

「あれは、カフィの絵だよ。僕のものぢゃない。」

 カイエは、早朝だというのに、もそもそとベッドに入った。昨夜から画き詰めだったのだ。スーは合い鍵を持っている筈だ。

 カイエが眼醒めると、真昼だった。ホットケーキをレンヂで温めて食べる。それから、洗面し、着替えをした。

 マロングラッセを食べる少女を画いた。右頬が膨らんでいる。『黄金の菓子を含んだ晩、あの人はこない。黄身色の菓子を、次々に砕く。』

 カイエは、初めて、カフィと署名した。

「馬鹿だなあ。きみの仕事は残らないんだぞ。」

「いいんだ、ブラウン。僕の仕事は、ビー玉の地図を画くことだったんだから。」


 ビー玉名所図には、カイエの署名が入っていた。

 仕事が終わると、ココアもだいたい切れている。カイエはシャワーを浴び、漫画本で文字の勉強をし、眠る。毎日は、リズミカルに過ぎてゆく。

 翌日は、瓶詰めの貝殻たちを画いた。瓶はキルクで栓をされている。パスタなどを保管する大きな瓶だ。貝はぎっしり詰まっている。カイエはひと欠片ずつ、入念に青で染色した。一見すると、華やかな色の瓶詰めに見え、それから、青しか用いられていないことに気づかされる絵だった。『去りし夏のオモイデ。過ぎしアルコールの季節。』タイトルは、夢。

 チチヤスヨーグルトを食べる少女の絵も画く。匙が異様に大きく、少女の頭は小さい。『牛乳はキライ。だって芳しくないわ。』

 菜の花畑で泣く少女。『帰るお家がないのなら、菜の花畑で泣きませう。きっと、ののさまが迎えにきてくださる筈です。』

 セルロイドの風車と、文庫本。『赤き涙は君がため。』

 梨と蟹。『蟹のハサミで、梨が涙を流します。誰も知らない沢の奥。』

 スケルトンの懐中時計。『金ピカ時計の腹の中。ゼンマイ地獄がカチカチ刻む。』

「きみの絵、値上がりしたわ。」

 ある朝、スーが云った。

「ゼロのケタが、ひとつ上がったの。」

「そんなこと、どうでもいいよ。僕は、記憶のなかのコフィを愛しているだけなんだ。」

「あたし、きみのこと好きよ。」

「メェ。よせよ。金なら呉れてやる。」

「そういう意味ぢゃないわ。」

「ぢゃ、どういう意味。スーはコフィが好きなんだろう。僕の絵なんか、きみにはミュル同様な筈だ。」

 カイエは続けた。

「僕は死ぬ日までここに住んで、ホットケーキを食べられればそれでいいんだ。恋愛に興味はないし、興味を持つ努力もしない。」

「変な子ね。」

2009年5月11日号掲載

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