到着を告げるアナウンスが流れ、ふと目をやると、わたしの真っ赤に塗った唇が半分開いたままになる。アタシが一番魅せられる目。そこには口にゴールドのピアスをして紺のキャップをかぶり、窓の景色の奥の奥を見ている目があった。景色を見ているといったらきっと間違っている。彼の目は、形だけが景色の方を向いている。瞳の中にある彼の真実は、何を見つめ、何を許さずにいるのだろうか。
彼は、わたしと同じ駅で降りた。紺のキャップから、からかうように出た金色の髪に少し距離を置いて階段を昇った。あんまりじっくり見ていたから、彼がポケットから財布を出すと同時に切符がひらりと落ちた瞬間、、「あっ」と声をあげてしまった。彼はわたしの声など耳に入らぬ様子で歩いて行く。少し迷いながら、わたしは2、3段、階段を戻って切符を手に取った。
「=入場券=」
キセル。彼はわたしと同じ電車に確かに乗っていたのだから。全然知らない人なのに、彼らしいなんて思ってしまった。彼だってきっと電車賃ぐらい持っているはずだ。
わたしの存在を無視した彼の強く鋭い目に嫌味を言ってみたいのと、久々に他人に興味を持ったわたし自身の目を試したがっているわたしの中の小さな欲望につられ、彼を追いかけ、改札口の一歩手前で、精一杯ッ無理して平静を装い、切符を出して見せた。
「コレ。無くても出られるの?」
入場切符なのだから、こんな物があったって改札口から出られる訳はない。私って意地悪だ。彼のガラス玉の様な鋭い目が、また形だけ私をとらえる。初めてアタシを映した彼の目は、私の鼓動を一気に早めた。私はちょうどニコッと笑ったときの様に口の右端をキュッとあげて見せる。もう一度自分に言い聞かせるように胸の中で繰り返す。何とも無いわよ、あんたなんか余裕。
「ありがと。イイ子じゃん。」
低く響く声。彼は切符は受け取らずに、鼻で笑ってアタシの頭をクシャクシャってなでた。
「あんたもね。」
今度はウフフと笑ってしまった。でも、心臓に近いトコが痛かった。
=ヤダ、物心なんてついてなかったハズの
「小さかった頃」が浮かんで来るじゃない。
イイ子だね、って言葉なら、乾いた関係の中で誰かが使うのを何度も聞いてる。でも、イイ子だねなんて今アタシに言ってくれるヤツなんていないよ。
大体、イイ人って何?それって、私の何に向かって言っているんだろう。私が気前良く出したお金?いらないからあげたアクセサリー?アンタに都合が良かった私のお世辞?面倒くさいから、ムカツク言動にも黙っていた私の「アンタに都合のよかった」態度?
内面や私自身を指して言ってくれてる人もいるのだろうか。でももうだめ。イイ人って言葉は間違いなく私の中に、表現に乏しくなりつつあるコトバが、自分の都合のイイ人間を指すときにとりあえず使う言葉だってインプットされている。細い糸でつながれた私の記憶をたどると、「イイ子だ」って言われるとき、いつも私の小さく細い指は、アカギレた温かい大きな手とつながれていたように思う。
そこまで思い出した時、横切った足音ではっとした。思いだしかけていた記憶達は、一瞬のうちに私の心とは分厚い壁を隔てた奥の方にしまわれ、二重に鍵をかけられた。二度と私を混乱させることのないように。
あんな、何もわかってなかった頃が一番良かったなんて思いたくない。アタシの幸せは、まだまだコレからなんだ。人よりずっと幸せになるハズなんだ。アタシの主張を笑ったヤツらを、見返してやるんだ。誰かと同等じゃ嫌だ、いかにもな幸せだってイイ。一番の幸せをつかんでやるって、そう誓ったはずじゃないか。
あわただしい警告を発する改札機と、追いかける職員の声など耳に入らないかのように彼は雨の中に消えていった。彼の背中を見送った私は改札を出て、彼とは反対方向へ向かう。幼い頃のつまらない思い出を、それが一瞬であっても呼び覚ましてしまった自分自身にいらだっていた。またこんな過ぎ去った小さなシアワセを振り返るようなことがあれば、今の私は消えてしまうような気がしていたから。大切だったいろんなものを犠牲にして、必死にグレーに塗りつぶしてきた頭の中のキャンパスに、一滴だって温かく鮮やかなパステルブルーがこぼれたら、アタシはもう誰も立ち止まることの無い、中途半端な絵になってしまう。反射的に転がっていた冷たくとがった石を右手に掴むと、大きく息を吸い込んで左手の甲を打つ。五つ目の大きな傷が赤くにじむ。もう私の心が揺らぐ事はないと自分に言い聞かせた。
(了)
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