数年の準備をへてようやく店を開く事が出来たのは31歳になったばかりの初夏のころでした。店の入り口は、蔵をとおらずに地下室に入れるように外に改めて造られ、蔵はかんぬきをかけたままにして閉じ、中のベッドもそこを訪れた時のままにしておきました。一見して店だとはわからないほどの小さな看板と赤い小さな電灯を灯しただけの店でしたので最初の一か月ほどはどなたも入ってくることはありませんでしたが、よくしたもので、準備をおこたらず待っていればなにか引き寄せられるように扉をひらくかたが現れてくるものです。いつしか、一度だけあるいは何度か足を運ぶ方などで地下の蟻塚状の空間はひどくにぎわうということもないけれどそれなりにほどよく人のぬくもりであたたまってまいりました。わたしは長くのばした髪をまとめ、モノトーンのバーテンダー姿でほとんど言葉を発せずカウンターのなかで仕事をしていましたが、それについてなにかおっしゃる方もなく、わたしの理想どおりに店は順調な一年をおくったのでした。
ある日、朝からの強い雨で客足もない夜。いつものようにカウンターにはいっているとひとりの男性が入ってきました。注文されたお酒をだしたまま、やはりいつものようにひとことも言葉をかわさないまま数時間ふたりきりでおりました。そのうち、ひとりふたりと客が入ってきて、そのひとは会計をすませ雨のなかをでていきましたが、閉店時間になり電灯を落としに表に出るとそのひとが蔵の前にたっていました。わたしには、彼が店にいたときから彼のことを全てがわかっていましたので、そのまま蔵の鍵をあけなかへと招き入れました。シーツはこのときのためにずっと清潔に整えられていたかのように、ひんやりとして水面のようでした。その夜わたしたちは無言のままベッドの上にいくつもの水輪を描ききました。そのうちに突如かつての両生類さながらの本領を発揮して深くもぐり何時間も水の中を漂い、気が付くとといつしか雨音が遠ざかり天窓が明るくなり、彼がはじめて口を開きました。
「朝日のなかでするのがいちばんすきなんだ」
経験がほとんどないわたしはすべてを彼にまかせて彼にしがみつくだけでした。ただ、溺れないように、溺れないように。数時間がすぎて、わたしはいつのまにかその日はじめて蔵のなかで、泳ぎ疲れた時のように深く眠りました。夕方目が覚めて表へ出るとかんぬきを差し込む金具のところに何かがかけてあり、そっとちかづいてみるとそれは金魚でした。お縁日の金魚すくいでおみやげにもらってくるような一匹の金魚。わたしはそれを大事にかかえて母屋へいき古いガラス器のなかに放ちました。金魚は最初ひらっひらっと力強く泳ぎ、新しい水が苦しそうでしたが、やがてその水にもなれたのか動きは緩慢に優雅に落ち着いていきました。
夜になって店をあけ、その日はいつものように母屋で寝て、翌日早く起きて掃除や蔵のシーツの洗濯などをしていると電話がかかってきました。
「もしもし」
「ぼくだよ」
心臓にどくりと血が集まりました。大叔父のあの「呼びかけ」のような声でした。それよりも少しひんやりとしていて遠くに聞こえました。
「金魚さんね?」
「うん」
「元気に泳いでいるわ」
「見えていたんでしょう」
「ええ。あなたもわたしに見えているって、わかっていたのね」
「そうだよ。僕にも見えるからね」
「また会えるの?」
「わからない」
「恋人になってくれるのでしょう」
「電話でしか」
「そう」
「また、見えるよ。ほかの相手とも互いにね。僕と出会ったあとだから」
「ほかの人に?」
「そう。見えたら、また蔵に誘えばいい」
「金魚さんは。それでいいの?」
「そうしてほしいんだ」