わたしが、ひとと相対することについて神経質であるのには、食事が見られたくないということのほかにもうひとつの理由がありました。15になったころから、わたしはしばしば人の背後に景色のようなものが見えるようになっていたのです。とはいえ、いつも誰にでも見えるというほどしんどい現象ではないのですが、ふとしたときにまるでところどころがほころんだホログラムのような景色が目に飛び込んでくるのです。それは、たとえば、はじめてひととあったときに多少洞察のよいひとならば、その人の人格であるとか知性であるとか育ちであるとか友人関係であるとかを、即座に感知する感受性となんらかわりのないような類いのものであるとは思うのですが、なにせ、映像として見えるものですから、気になって話に集中することもできませんし、見える景色によっては相手に対してどうしても神経質にならざるをえない、やっかいな能力なのでした。また、たいていは、街であるとか、砂漠、川、海、山、林、などたいして気にもならない風景なのですが、なぜだか、背景に「みずうみ」が見える男性に会うと、瞬時に恋におちてしまうのです。恋におちるという言い方は多少遠回しすぎるかもしれません。率直に言うのならば、つまり、猛烈にその方に欲情してしまうのです。一時はなにか淫乱の病気であるように悩みましたが、そのような直情的な欲求を長い間かけて押さえることができるこつのようなものを身に付けることができて、ようやくそのことは気にしないですむようになりました。もちろん、みずうみの見えないかたに恋をしたこともありますし、だいいちみずうみを見たのは今回で五度目にすぎないのです。それでも、本当に欲するままに一夜をともにできたのはこれがはじめてでした。「金魚さん」が店にはいってきたときわたしにはすぐにそれが見えました。もちろん、ふつう、自分の背景がどんなものであるのかなどということは知る人はいないですから、わたしはそのことを相手に伝えることもありません。金魚さんもそういった相手のひとりにすぎずそのままとおりすぎるものとおもわれましたが、お酒を目の前に差し出して目と目があったとき、彼がそのことを全てしっているのだということがすぐにわかりました。わたしの背景にもそれがあるのです。彼の目はわたしの背後のみずうみの風景をしっかりととらえていたのでした。彼が蔵のなかにはいってくるつもりなのだということなどすべてわたしたちは瞬時に理解しあいました。わたしたちは互いが抱えているみずうみに手を差し入れ冷たい水をかき混ぜすくい、くちにふくみました。彼のみずうみは限りなく闇に近いビリジアンの糸杉の森に囲まれていました。群青から緑、灰色へのグラデーションを携え、遠き北の国にあるかのような透明度をもっていました。深く深く探っていくとわたしの手はちいさな塊を掴みとりました。それは、とても冷たく氷にようで、握りしめていると痛く感じました。熱を帯びてゆくのか奪われていくのか、あるいはその両方の感覚をよびさまされながらなおも力をこめると、それは突如発火音とともに手の中で燃え上がり、わたしの指先、手首、腕、乳房と、からだの表皮を焦し青みを帯びながら全身を包み込んでいきました。青い焔の向こう側に森があり、みずうみがあり、彼がいました。彼の輪郭はおぼろげでどのように見つめようとしても焦点があいませんでしたが、わたしの記憶の粒子は彼の姿をわたしに気付かれないようにしっかりととらえ、その映像が決して消滅する事がないということによっていつまでもわたしを裏切って苦しめているのでした。