わたしは 蔵にはいりそのひとをまっていました。夜空には重たい雲がたれこめているのか天窓からはひとすじの月明かりもはいっては来ず、ただ暗闇のなかで蛇口からもれる水の音を聞いていましたが、その水音がやがてさざ波のように聞こえて気が付くとわたしはもはや蔵の中のベッドの上ではなく、どこかの森の湖の水面に仰向けになって浮いていました。とても静かで月がでていました。わたしは手を伸ばして月をつかみとろうなどと思わず子供のようなことをして空を見上げ、時間はまるで過ぎゆく経験などいままでのいちどもなかったのだというようにわたしと月の間にとどまり、水は冷たくも暖かくもなくわたしのもうひとつの皮膚のようにわたしのからだを信じがたい相性のよさで包み込んでいました。おそらくわたしは誰とも肌を合わせてはいない。白いベッドなども蔵などもどこにもない。わたしはまだ誰のことも愛した覚えなどない。愛されたこともない。そのような念が突如浮かび上がったことを合図としてなのかわたしの体はゆるゆると水に溶けていきました。まるで体がいままで理解してもらえずに苦しんでいたことから解放されるのだというように。
その晩、蔵には結局誰も現れませんでした。
浅い眠りから夜半に目覚めると杉の林の中にいました。巨木の群生の合間から浅葱色に鈍く光るものがあるので、確かめようと林を小走りに抜けると赤土の広大な土漠のなかの鉛色のおおきなみずうみがみえました。手を差し入れるとおもわず顔をゆがめるような熱い湯でした。比重は重たく金属の不快なにおいがし、いつものように深く探っていくと突然からだが重くなり湯の中に落ちてしまいました。まるで泥水のような緑青の液体のなかで苦悶しましたがやがて、その汚泥も熱い温度も浸って身を任せているとなぜか心地よくさえ感じられ、わたしは抗う事を断念しわずかな酸素のために水面を求める以外、その中深く沈んだまま長い間身をこごめていました。もうこのまま浮かび上がる事はないだろうと思っていると暗い水のなかで誰かの差し伸べる手を見つけ、見つめていると誰かの声がしてきました。大叔父のような、ゆうべの客のような、誰なのかはわかりかねましたが懐しい暖かみのある声でした。
―どうしてわたしのもとからでていったのだ? もどってらっしゃい
―もう、もどれないのです
―もどれないのではなくて、もどりたくないのでしょう?
―もどりかたを忘れてしまいました
―わたしがつれもどすよ
―もう、もどれないのです。まだ見ぬ機を織る日々には
―みずうみに深く沈む運命だ
―わかっています
―鏡の中にいったい何を見たんだ?
―赤い影です
―ランスロットの影だね
―いいえ、ただの小さな赤い金魚の影ですわ
そこまでいうと、さっきまで目の前にあった手は消え去り、わたしはさらに重たい水のもっと深くへと沈んでいきふたたび眠りに落ちていきました。
昼下がり激しい雨音で目覚めましたが、体は重たく起き上がる事が出来ずにしばらく蔵の天井を見つめていました。雨音はかなり激しく、どうやら夏の終わりの嵐のようでした。わたしはふと母屋の窓のひとつが開け放したままだったことを思い出しました。