やっとの思いで身を起こし豪雨のなかを母屋へはしると、記憶にあったとおり寝室の窓はあいていてかなりの雨が吹き込んで部屋の一部が水浸しになっていました。窓辺にあった金魚鉢の水はすでにいっぱいになっておそらく跳ね上がったのでしょうか、金魚が畳の上でばたばたとまさにいま断末魔という姿をさらしているのでした。あわてて鉢の中へもどしましたが、金魚はふらりふらりと左右に泳いだあと静かに水面まで浮かんできてそれきり腹をみせて動かなくなりました。そっとすくいあげて、雨が上がった後それをそのまま裏庭のつわぶきの傍らに埋めました。雨上がりの庭は深緑に濡れてどこか生臭いにおいに満ちており、ふいの青空に目を移すと息を吹き返したようにカナカナがいっせいに鳴き始めました。
 わたしはなんだかしばらくぶりにゆっくりと縁側に腰かけて、叔母がときどきここでぼんやりこの庭をながめていたときのことを思い出していました。祖母からうけついだ母のそれとは異なる父系のすっとして先がほんのすこし上を向いたかわいらしい鼻や、かたちのよいやや薄めの唇などを、覗き込むようにして見ていると、そんなにじっとみてどうしたの。とくすくすと笑い出したりするのですが、またすぐに視線を戻してどこかを見つめるのでした。あのころ叔母はまだ四十すこし手前で、いつから何故大叔父とここで暮らす事にになったのか子供だったわたしにはわかりませんでしたが、もっと記憶をさかのぼってみれば、わたしがまだほんの小さいころ、母がしばらくのあいだ家を空けていたような時期があり、それは電話やらなにやらで、なをが、なをが、とやたら叔母の名を耳にした時期と重なり、病気。とか、あまり人様にはいえないのだけれど。とか、やはり病院に、などの断片的な言葉がモザイクのように記憶の隅にあったのですが、 結局大人になってからも その「病気」がなんであったかを聞く機会も勇気も失ったまま叔母は逝ってしまい、そんな疑問などはわたしにとって無意味となってしまいました。出棺を見届けた時、それまで忙しそうにばたばたと立ち回っていた母が、急にほろほろと涙をこぼして「かわいそうな子だった」とだけいいましたが、わたしにとっては十年のあいだ大叔父からこころから愛されていたはずの叔母が不幸であったとは到底思えませんでした。おそらく母には病んだかわいそうな妹を憐れんで当時独り身となった叔父が、彼女の面倒をしかたなくみてくれたのだ。というように映っていたのでしょうが、実際に叔母を必要とし、とりすがっていたのは大叔父のほうなのでした。場面にかかわらずときどきひどくさみしそうな顔をする叔母を大叔父はよく「なをさんがまた“憂い眼鏡”をかけている」といってからかっていました。「なをさんの“憂いの眼鏡”はなんでも憂いて見えるんだよ。かえるだってね、あさがおだってね、こんなに明るい子供の笑顔でさえなをさんにはかなしく見えるんだから」と、おどけて両の手の指で眼鏡のかたちをつくって自分の顔にあてがい笑うのでした。夕暮れのせまった庭をみているうちわたしも叔母の亡霊から“憂い眼鏡”を譲り受けてしまったようでした。おそらくもうはずすことはないのでしょう。
 偶然が重なってのちいさな過失。それが何かのきっかけででもあったかのように、金魚さんからの連絡も途絶え、なぜだかいろいろなことがうまく運ばなくなりました。死んだ赤い金魚は唯一わたしに対して効力を発揮する微弱の重力だったのかもしれません。店はいつからか近所でたてられた下衆なうわさによって警察までが調べにくるようになり、営業は困難になりました。何度か店や自宅を訪れた署のもののなかにわたしがはじめて店で言葉をかわした客に似た男がおりましたが、それがわかったからといってどうということもなく、わたしはわずらわしい人との関わりが何よりも嫌いでしたから、それがよい機会であると悟りあっさりと店を閉めることにしました。特にそのことについてのなんの感情もおきませんでしたが、出会う場というものを失ったことに多少動揺をし、とうとう町なかにまであの風景を捜しに出かけるようになってしまったのです。それは、店で待っているときよりも容易にしかもたくさん現れわたしを幻惑しました。それでもなにかにとりつかれたように毎日毎日徘徊し、見つければ声をかけ、やはりなぜかしら相手にもわたしのことがわかるようになっているものですから、いつも必要以上の会話もかわすことなく彼等は当然のように蔵へと吸い込まれてくるのでした。
 それから何年もの間、ただただ泳ぎきることだけを考えて毎日を暮らしていきました。向こう岸にたどりついたときにはきっと彼がまっていてくれるのじゃないだろうかと、いまも彼等が出ていった後ひとりになった真っ白なベッドで、静かに身を起こして蔵の窓から差す陽光を見上げているのです。この朝の光だけはあなたのためにとってあるのですといわんばかりに。

(了)