text/税所たしぎ
p r o f i l e

 夜が明ける。サテンのシーツを巨大な手で風にはためかせたように黒々としたうねりが隊列をなして次から次へとやってくる。

 薄暗がりの中、ブレイクが奇跡のような白さで増殖していく。

 はるか遠くで気圧の砂時計にかき回された狂乱。

 凶暴で無秩序な荒波は、ゆっくりと息を整えながら、力を失うことなく整然としたうねりとなって大洋を越え、広大な沿岸地帯にとどく。

「眠くない?」

「眠い」

 リアゲートを全開にした涼は、水平近くまで倒した座席の毛布のかたまりに話しかける。

「寒くない?」

「寒い」

「海見る?」

「見ない、寝る」

 もう話しかけないでといわんばかりの不機嫌な口調だ。涼の声音もどこか上の空だ。視線の先の三角波に心を奪われているのだ。サーフムービーのような逆巻くビッグウエーブではないけれども、二つの岩の岬に挟まれたちんまりとした弓型の砂浜に寄せるささやかなエクセレントウエーブ。

 毛布の端がめくれて、力の抜けた手がのぞき、おっくうそうに振られる。

(海は別に好きじゃない、砂は嫌い、紫外線は大嫌い、マッチョは気持ち悪い。でもね、涼のことは好きだった、中学のときから好きだった)

 と、美李は再会の場で言った。(だから行くわ)と、涼の誘いに乗った。

 そそくさと駐車場のアスファルトに荷物を放り出して、涼はリアゲートを閉める。薄情な鈍い音がする。5mm3mmと生地の厚さで表される冬用のウエットスーツ、ニットケースにくるまれたサーフボード。刺すような冷気に潔くダウンジャケットを脱ぐ気になれず、横着に上半身は着込んだまま着替え始める。車の中ですやすや寝息をたてているかつての同級生のことがどのくらい気になっているのか、彼自身にもわからない。いまは、目の前の波のことしかない。

 美李がそのスポーツクラブを選んだのは、単に家に近く安かったからだ。そこで涼に再会するとは思ってもみなかった。三十歳を目前にして(二十五歳の誕生日を迎えたときからそういう年の数え方をしている)鏡の前の自分に愕然とし、ダイエットのために入会し、身も蓋もないネーミングの『痩せよう5kg燃やそう体脂肪コース』に申し込んだ。カウンセリング、マシントレーニング、食事指導、そしてプールでのエアロビクス。

 彼女は在宅ワーカーで机の前に座りづめの生活をしている。スポーツクラブで体を動かすことが驚くほど新鮮で、体のあらゆる部分がギシギシ悲鳴をあげるのが、苦しくも愉快だった。十年近く放っておかれた関節や筋肉が息を吹き返し、せっせとエネルギーを消費している実感は、忘れかけていた喜びだった。

 

次回
      2005年6月6日号掲載