業田良家については、すでにマンガ・ショートストップで高梨晶によって取り上げられている。直接的に取り上げられているのは「詩人ケン」だが、「自虐の詩」についても
「『週刊宝石』に連載され、最終話で誰もが泣いたという伝説の4コマギャグ。『ガロ』『ビックリハウス』出身の漫画家、イラストレーターが「ヘタウマ」と呼ばれて一世を風靡していた時代、業田良家もそんな一人として扱われていたように思う。ろくでなし亭主がえんえんとちゃぶ台をひっくり返し、妻に暴力を…というパターンがミニマルミュージックのように繰り返される、そんなマンガだった。「ちゃぶ台をひっくり返す」という常套パターンを畳までひっくり返すことでパロディにしてしまうその勢いが気になって毎回本屋で立ち読んだ。そして最終話。こんなラストを迎えるとは。ああ、幸せとはこんなにも哀しく切ないものであるのか、ああ…。」
と書かれている。
はっきり言って「自虐の詩」は傑作である。私も感動して泣かされた。しかし「感動した。」と叫んでいるだけでは小泉某になってしまうので、少しはその内容に触れてみたいと思う。
マンガのことに詳しいわけではないので、他にこういうタイプのマンガあるのかどうか分からないが、「自虐の詩」が特徴的であるのは、4コマギャグマンガでありながら、ストーリーのあるその展開である。確かに最初は、ろくでなし亭主がえんえんとちゃぶ台をひっくり返し、…というパターンがミニマルミュージックのように繰り返される、そんなマンガとして始まっているし、作者も最初はそのつもりでいたのかもしれない。主人公の幸江は「薄幸の女」として描かれて、ろくでもない亭主に散々な目にあわされながら、そんな亭主にぞっこん惚れてもいて別
れることができないでいる。そんな二人の周辺の日常が、4コママンガとして、延々と描かれていく。
しかし、徐々に、お話は彼らの過去に触れはじめて、「竹書房文庫ギャグ・ザ・ベスト」から上下巻として出ているその下巻に至ると、話の中心は、幸江の悲惨な子供時代に移っていく。幸江の父親は、幸江の亭主に輪をかけたようなだらしない男で、幸江は生まれてすぐに出ていった母親の顔を思い出せない。家は借金漬けで、幸江は学校でも虐げられている。そんな悲惨な過去に、ろくでもない今の亭主との生活が、それでも幸せなんじゃないかとだんだん思わせられてくるのが、このマンガの一つの妙である。
竹書房文庫の解説には、内田春菊と小林よしのりが登場しているが、内田春菊の指摘する泣きのポイントは、熊本さんという中学校時代のもうひとり人生にめぐまれず、クラスの皆からつまはじきにされている幸江の友だちとの交流に集中しているし、小林よしのりは、「こういう幸江みたいな人は昔いたんだよね。うちのすぐ近くもそういうおばさんがいたよ。やっぱり旦那が酒乱で、まともに家に帰ってこないし、帰ってきたら暴力をふるって、一家丸ごとたたき出してしまうし。昔はいたわけよね。」と言いつつ、「でもあんなのがマンガの主人公になるとも思わなかったし、そんな悲惨な話を描いたって、読者に喜ばれないと思ってたところがあったよね」と語っている。しかし、読者にどれぐらい喜ばれたかという点になると、内田は「でも、部数、出ないよねえ。なぜだろう。真剣に考えたよ私は。4コママンガでもこんな形があっていいはずだって、描き手と、それから一部の読者は思っているんだけれど、でもその他の大部分の読者はそういった展開を4コママンガに期待していないのね」と言っている。
要するに「自虐の詩」の特徴は、4コマギャグマンガにシリアスなストーリーを持ち込み、通
常主人公にはなりにくい地味な日陰の人物を新しいキャラクターにしてみせたといったところになるだろうか。もちろん、破壊的なこの要約によってかき消された細部にこそ「可笑しくてやがて悲しき」神は宿る。ジャンルの混淆によって新しいタイプの(これまで読んだことがなかったような肌合いの)マンガが出来上がっていること、主人公に対する独特の距離感が(愚かしく醜い生活だが、その振る舞いを愛すべきだとも感じてしまう)最終的に不覚の涙にも結びついてしまうのだということはいそいで付け加えておかなくてはいけない。
描かれている世界は、以前に「アポロ11号」の中で触れた『岸和田少年愚連隊 望郷』にも近い。そこで私はこう書いた。
「『岸和田少年愚連隊 望郷』は、大阪の南部に位
置する岸和田を舞台に1969年から19970年という時代背景で、小学6年生から中学校へ成長する少年を主人公として描かれる映画だ。東京から赴任してきたらしい若く美しい女性の担任が、呆れて「バカも生きる権利があるのか」と嘆くような親を持つ、メリケン片手に喧嘩に明け暮れる破天荒な少年の日々が描かれる。呆れた少年に輪をかけたようなバカな父親は竹中直人が演じている。(中略)しかし、ふと気がついて胸を突かれた事実は、この主人公の少年が我々とほとんど同世代だということだ。なるほど、ほとんど忘れかけていたが、ここに描かれているような破天荒で無茶苦茶な生活がかつて存在していたように思う。そして「バカも生きる権利があるのだ」と結論したくなる。しかし、今の時代にこんな「バカ」が本当に許されるだろうか。少なくとも、不気味な犯罪者に小学生が殺害されるような新興住宅地では、このような「バカ」は生きることを許されないように思える。」
あるいはその世界は、梁石日の『血と骨』に通
じるものもあるかもしれない。しかし、『岸和田少年愚連隊』の中場利一や、『血と骨』の梁石日がそこから抜け出してきた世界を描いているとすれば、『自虐の詩』が表わしているのはマンガ的な反復的世界である。幸江は故郷での自虐的な子供時代と青春時代を経て、東京に出、そこで自虐的な堕落した生活を過ごし、そして父親同様のだらしない亭主と暮らし、やがて身ごもり熊本と再会するところで完結している。この熊本の存在がすばらしい。この熊本こそが「バカでも生きる権利があるのだ」という尊厳を体現し、そして幸江にもそのことを教えているからだ。「バカでも生きる権利がある。」この唯物論的真理こそ、いつの時代にも、地上のいかなる場所においても、貫徹されるべき真実である。いや、これはいかなる形で踏みしだかれようと、誰にも止めることのできない事実である。
業田良家『自虐の詩(竹書房文庫ギャグ・ザ・ベスト)』
全2巻・価格1,126円(税込)
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