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福間健二の『侵入し、通過してゆく』を読む。「現代詩手帖」に連載した詩らしい。「らしい」というのは、私は連載時には読んでいないからである。 まず福間健二について略歴をみておきたい。1949年生まれというから、現在は50代半ばであるはず。詩人として知られるようになったのは比較的遅い印象があるが、それは私の誤解だろうか。とても多作な人で、多くの詩集を出している。『沈黙と刺青』『冬の戒律』『鬼になるまで』『最後の授業/カントリー・ライフ』『急にたどりついてしまう』『結婚入門』『地下帝国の死刑室』『地上のぬくもり』『行儀の悪いミス・ブラウン』『きみたちは美人だ』『旧世界』『現代詩文庫 福間健二詩集』『秋の理由』と、10冊を越える。その他に翻訳や映画に関する著作もあるし、映画監督として2本の映画を撮っているらしい。 作風はというと、詩人自ら「サンプリング」「リミックス」の手法と言っている。様々な引用を含む、いや、引用ではなくそれはサンプリングなのだ。つまり引用とは言葉をそのまま「引く」ことだが、他の言葉を素材として使い何らかの加工が加えられているということだ。だからサンプリングという。もちろんサンプリングにしてもリミックスにしても、音楽の用語からの流用である。 私は彼の感覚がよく分かる気がする。なぜなら私も以前同じようなことを考えていたからだ。私の第一詩集『花柩』には多くの引用が含まれる。あるいは引用ではなく、他の言葉からの触発が。たぶん私は、宮川淳らの「引用の織物」という考えに影響を受けていたのだろう。1980年代の後半から1990年あたりにかけてのことだ。当時、サンプリングという意識は無かった。すでに石野卓球が電気グルーヴで「何はなくともサンプリーング!」と叫んでいたにもかかわらず。 と同時に私はその手法に何か危うさを感じていた。人が様々な言葉から触発を受け、詩を書く。それはいい。だがコラージュのように言葉を組み合わせていく時、その基盤には何があるのだろうと考えた。私は、たぶん基盤が欲しいと感じたのだ。だから民俗学を援用した。言葉がその背後に持つ意味の蓄積を基盤としようと考えたのだと、いまになってはそう思う。 音楽を考えてみよう。サンプリングをおこない、リミックスを作っていく場合、その基盤はたぶんミキサーのセンスでしかない。もちろんそこには基本的な音楽知識も必要とされるだろうが、それにしても、いわゆるセンスがなければかっこわるくなる。問題はカッコイイかどうかなのだ。 福間健二の詩はどうかというと相当にカッコイイ。かっこよく出来ている。第2作「きみは私の名前を知らない」の最後の連を読んでみよう。終わり方は大事だから。
これが第2作の終わり方。かっこいいリズムが感じられる。 ではこんなのはどうだろうか。第5作「レプリカ」の最終連。
どういう意味かと言われても仕方がない。私にも答えようがない。問題はそういうところにはない、そんな詩なのだ。しかも福間健二はかなり巧みにこの手法を使いこなしていると私には思える。 だがそのように考えていくとき、私はひとりの偉大な先達のことを思い出ずにはいられない。そう、あの偉大な西脇順三郎だ。 以前、鍵谷幸信の著作で、西脇が飲み歩きながらの行状とその行程を、すべて詩にしてしまうというのを読んで驚いたことがある。そしてその合間合間に様々な引用、あるいはアリュージョンがなされていく。(そのアリュージョンの多様さについては新倉俊一の『西脇順三郎全詩引喩集成』という膨大な仕事がある。) もちろん福間健二だってそんなことは承知のはずだ。 この手法はこれからどうなっていくのだろう。福間健二が、決して新しくはないこの手法に、サンプリングあるいはリミックスという言い方をかぶせたことはいいことだと思う。新しい角度を付け加えたことになるからだ。 今後も注視していきたいと思う詩人である。
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