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哲学者が死んだ。俺にできるのは引用ぐらいしかない。
〔以下、『盲者の記憶』(みすず書房)より〕 ――哀願と慨嘆、 それもまた眼の経験だ。 私に涙のことを語るつもりなのか? ――そう、もっとあとで。涙も眼についてなにごとかを語るが、それはもはや視覚とは無縁だから。もっとも、視覚をヴェールのように覆い隠すことで、涙が視覚を開示するということもありうる。…… だが、涙が目に到来するものであり、そしてそのとき視界を覆いうるものであるならば、涙こそがおそらく、この経験の流れのさなかで、この水流のなかで、目というもののある本質を、いずれにせよ人間の目の、聖なる寓意の人間―神学的空間において理解された目の本質を啓示するのである。根底においては、目の根底では、目の用途は見ることではなく泣くことだということになるだろう。眼差しがそれを覆蔵している忘却の外へと涙が迸らせるもの。それこそはアレーテイアに、このようにして涙がその至上の使命を啓示する目の真理にほかならないことになるだろう。…… ……あらゆる動物の目が視覚へと用途づけられており、そしておそらくはそのことによって、理性的動物の観察的知へと用途づけられているとしても、人間だけが、見ることと知ることのかなたに行くことを知っている。というのも、ただ人間だけが泣くことを知っているのだから。……彼だけがそれを見ることを知っている、彼、すなわち人間だけが、それ、すなわち、涙こそが目の本質であり、視覚ではないということを。…… …マーヴェルは知っていると信じていたのだ、視力を失ったからといって、人間は目を失うわけではないと。それどころか、人間は、そのとき、初めて目を思考し始める。任意の動物の目ではない、彼自身の目を。見ることと泣くことに間に、彼は差異を垣間見る。そしてその差異を、記憶に保持する。そしてそれが涙のヴェールなのだ、ついに、それも「同じ目」で、涙が見るにいたるまで。… ――見る涙……。あなたは信じているのか? ――わからない。信じなくてはならないのだ。 「視覚ではなく、涙こそが目の本質である」。そのことを教えてくれた哲学者が死んだ。もう俺にできることは、ページを繰り続けることだけだ。 2004年10月18日号掲載 |
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【また別の追悼】 |