キ ム チ p r o f i l e
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ここまでの論点を整理しよう。中谷は市場原理(マーケットメカニズム)を民主主義に喩えている。それが公正に民意を反映して、多様な要望に応え、希少な資源をもっとも効率的に配分するからだ。小泉純一郎が今回の選挙に勝利したのは、旧世代の既得権益の調整機関であった自民党の中で、その自民党流の「分配」政治を(多少なりとも)ぶっ潰そうとしていることが国民に支持されたからだ。少なくとも小泉がかつての自民党の支持基盤を骨抜きにし、新たな都市部の支持基盤を獲得することによって勝利したことは確かだろう。

では、本当にマーケットメカニズムは民主主義を実現するだろうか? ここで中谷が行っているのは比喩であり、経済の問題を、政治の問題と等質に扱うことにそもそも間違いが存在するという意見がありうる。中谷自身もおそらくは総論としてはそう主張するだろう。しかし、この「マーケット論批判序説」が(それも「電藝」という文芸を対象とするであろう媒体を選んで)扱おうとしているのは、経済あるいは経営の言葉が、政治や文芸の言葉に嵌入し、浸潤しているような事態への批判である。

生真面目に話を続けるならば、マーケットメカニズムを 100%信奉するわけにはいかないことは、中谷も認めている。ここで取り上げられた不平等の発生の他にも、「情報の非対称性」など、「市場の失敗」の例を中谷も取り上げ、だからこそ国民が「マーケットの深い意味」を理解し、国家が最低限かつ適切に介入することによって「マーケットの力をうまく使う」ことを主張しているのである。

しかしながら、本題であるマーケティングとの関連において、本論が指摘しておくべきことは次のことである。

中谷は、「マーケットメカニズムが完全に働いている社会は、人々の活力を生むと同時に、個人個人の求めに応じた生活の豊かな多様性をもたらします。」と主張している。しかしながら、少なくともワルラスの体系の中では、「完全競争体制の下での均衡においては利潤は存在しえない」と岩井克人は解説している。(「遅れてきたマルクス」、『ヴェニスの商人の資本論』、岩井克人、ちくま学芸文庫、101頁)

レオン・ワルラスの一般均衡理論とは、市場で取引されるさまざまな商品の価格および需給量の間の相互依存関係を明示的に定式化し、完全競争の仮定の下では、すべての商品の需給を同時に均衡させる均衡価格の体系が存在しうることを示した最初の経済理論である。(同99頁)つまりはワルラスは、アダム・スミスが予見した「神の見えざる手」、市場の「効率性」をはじめて数学的に証明したのである。

しかしながら、完全競争の想定のもとでは、もしある市場の中のいくつかの企業家が利潤を得ているのならば、利潤の増加を求めて彼らは自らの生産量を拡大するであろうし、新たな利潤の機会に誘われて他の企業家がその市場に参入するであろう。その結果、その市場での生産物の供給が増加することによって価格が下落するとともに、生産要素市場での需要の増加により生産要素価格が上昇し、窮極的には利潤は拭い去られてしまうはずである。…ワルラスの体系の均衡においては、少なくとも長期的には「企業は利潤も得なければ損失も被らない」という結論が導かれる。

(「遅れてきたマルクス」、『ヴェニスの商人の資本論』、岩井克人、ちくま学芸文庫、101頁)

もちろん、現実にはさまざまな市場において利潤あるいは損失が存在している。しかしながら、ワルラスの「無利潤論」の立場から言えば、それは、市場がいまだ均衡に至っていないこと、あるいはさまざまな摩擦的要因や社会制度によって完全競争の条件が成立していないことを意味するにすぎない。

(同101頁)

繰り返せば、中谷はマーケットメカニズムが完全に働いているとき、社会は活性化すると語った。やる気のある人、がんばった人がそれだけ報いられ、利潤を獲得することができるからだ。しかしながら、ワルラスがここで指摘しているのは、マーケットメカニズムが完全に働いているときには、利潤は生まれないということである。裏返せば、企業に利潤が生まれているとき、そこには不完全競争が存在し、価格は均衡していない。少なくとも人々と企業を活気づけるような「より多くの」利潤が存在しているときには、以上の命題は「正」である。(少なくとも「長期的な」均衡にいたる過渡的状態である。)マーケティングとは、不完全競争を生み出すための手段なのである。

どんでんはかえされた。社会を活性化させるためには、人々の鼻先にニンジンをぶら下げる必要がある。それはマーケットメカニズムが完全に機能しているような「民主主義的」状態とは位相が異なる。

2005年10月31日号掲載 | 

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