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「人間の最終的な目標は成功」だと堀江貴文は語る。「フリーターや引きこもりといわれる人たちでも、彼らの世界の中で満足したり、認められたり、成功を感じることができるなら、われわれがとやかくいう権利はないわけです。価値観の多様化は歴史の必然だと思っています」と(『稼ぐが勝ち』、堀江貴文、知恵の森文庫、光文社、64頁)。しかしながら、ホリエモンの価値観の多様化への評価は、マイサクセスへの評価と同様に微妙である。マイサクセスは良いことか、と問われれば堀江貴文は「良いか悪いかは別として」、「それに対して僕がとやかく言う権利はありません」と断りながら、「僕個人はこういう生き方は非常につまらないと思うのです。」と語っているからだ。(同、158頁)
マイサクセスとは「一般的に考えられてきた成功のパターンではなく、個人の価値判断によって成功度を判断すること。簡単に言ってしまえば、貧乏人なら貧乏人なりの自分の夢を実現させればそれでいいという考え方」だと堀江は言うが、それは中流が崩壊したこと、つまり「旧来の『成功物語』が破綻したことと関係があると思います」という。「誰もが同じ価値観を共有するのではなく、個人それぞれの価値観のなかでの成功が重視されるようになった。」(同5頁)そのことを、堀江は必然的だといい、「悪いことではない」(同6頁)と言いながら、一方で「要するに、自己満足ですね。」と切り捨てるのである。
「自分の限界はこの程度のものだ」と悟ったときに、未来への道は断たれます。悟ってはだめなのです。僕に言わせれば悟りとは逃避に過ぎないからです。
仏教なんかでもそうですが、「悟り」とは真理に到達するものだと一般には考えられています。しかし、よく考えてみるとこれはただ論理的に真理を追究することから逃げているだけなのです。
(『稼ぐが勝ち』、158頁) |
真理に到達するのは不可能だと思ってあきらめて、自己暗示をかけて自分を納得させる。それが悟りの境地、と言われているものですよ。
例えば大金持ちになるのは、客観的に何かに到達することでしょう。
しかし、自分の精神世界のなかだけで完結してしまう「悟り」なんて、一種の脳内麻薬のようなものだと思うのです。
(同159頁) |
ホリエモンが言っていることは、 「客観的な何か」 に到達できればそれは「成功」と認めよう。しかし、宗教が語る「悟り」のようなものは、科学が未発達で客観的な何かを語れなかった時代の「自己暗示」でしかない、ということのようだ。
たとえば、というわけでホリエモンは、サンクチュアリ出版を立ち上げた高橋歩の例を挙げる。映画『カクテル』を観てどうしてもバーを経営したくなり、大学を中退して仲間とアメリカンバーを経営し、自伝が書きたくなって出版社をつくってしまう。その本がベストセラーになり、会社を譲って世界放浪の旅に出て、沖縄に移住してカフェバーとビーチハウスを経営し、自給自足の自由学校を計画したり…、そうした高橋歩の人生を、ホリエモンはひとつの価値観として認める。しかし、彼の惹かれてそこに集まってきている人たちは怪しいという。要は、金持ちになった、人に認められたという、客観的な?到達をした人は認めるが、そうでなければ単なる自己暗示で自己満足にすぎないということで、どうやらあるらしい。
ホリエモンの話は、そこから「悟り」と宗教の批判になり、それは死から逃げているだけだ、自分は死なない。そのための科学に投資する、という話になる。それもまた、客観的か科学的であるかは分からなくても、多様な価値観の一つではあるかもしれない。しかし、結局のところ「成功」を誰がどう決めるのか?「科学」や客観性や金持ちやといった基準に頼るのは、それを決める決め手が存在しないという現実からの逃避ではないのか?それとも、ホリエモンは、もっとも多くの人が「成功」と考えるものが「成功」であると考える、ポストモダニストであるのか。