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想像するにここには明らかな構図があって、問題を起こす中学生や高校生に対し、大人たちは彼らのいらだちや疑問に答えてやる必要があったのだ。残念ながら、しかし、綻びは繕われずに残ってしまうことになった。
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TBSのテレビ番組、「ニュース23」の夏休み特集に出演した高校生が「人を殺してはいけない理由が分からない。自分は死刑になりたくないから殺さないだけだ」という主旨の質問をして、その場にいた大人たちの猛反発をまねいたそうだ。このちょっとした出来事は、この高校生の発言もさることながら大人たちがほとんどまともにその質問に答えることが出来なかったということから人々の印象に残ったようだ。 私がこの出来事を知ったのは『敗戦後論』を書いた加藤典洋が朝日新聞の夕刊でインタビューを受けた中でそのことに触れていたからで、加藤典洋もまた周囲の大人たちがその高校生の質問にまともに答えることが出来なかったという事実にショックを受けていた一人だった。加藤はこの高校生がこうした質問をしてしまう背景には、現代人が人の死を身近に感じる事が少なくなり、人の死の悲しみを経験することができなくなっていることがあるのではないかと語っていたし、その他のことも語っていたと思うが、この番組の一場面がこのように一つの出来事なり、事件なりとして取り沙太されるようになった背景には、神戸市須磨区で起こった少年Aもしくは酒鬼薔薇の事件が直近にあったからに違いない。この酒鬼薔薇事件を扱った『透明な存在の不透明な悪意』の宮台真司もそう語っている。 この番組を見た私の友人によると、当の高校生は人を殺しても構わないと思っているわけではなくて、ただ殺してはいけないとする理由が分からないと言っているだけなのに、周囲の大人たちは悪い芽を摘むように彼に集中砲火を浴びせたのであり、それは一つには彼が誤解を受けやすい外見を持っていたからではないかという。いずれにせよ、この質問を受けた大人たちは、この質問に対して明確な答えを出すことが出来ず、そしてそのこと自体が大人たちのいらだちを募らせたということは想像できることだ。幾人かの人が、大人が答えられなかったという事実にショックを受けているのであり、私の友人もまた、高校生の質問に一瞬虚をつかれた気がしたと語っているのだから。 重ねて言えば、想像するにここには明らかな構図があって、問題を起こす中学生や高校生に対し、大人たちは彼らのいらだちや疑問に答えてやる必要があったのだ。そこで明確に答えを出すことが出来なければ、少年が起こす一連の事件に対しても答えを出すことが出来ないということをあからさまにしてしまうことになる。だからこそ、このささやかな綻びが多くの人の中で、鮮やかな印象を残してしまうことになったのだろう。残念ながらしかし、この質問「人を殺してはいけないか」には明確な解答は存在せず、綻びは繕われずに残ってしまうことになった。 『デッドマン・ウォーキング』という映画は、アメリカのある死刑囚(ショーン・ペンが演じている)と彼の死を見取るあるキリスト教会のシスターと、その周囲の関係を描いている。黒人の集まるスラム街で人々の教育や子どもたちの世話をしているシスターは、ある時この囚人から手紙を受け取り、面会して上訴の手続きを手伝ってくれるよう依頼を受ける。彼は仲間と二人で若い恋人たちを森に連れ込みレイプした上でショットガンで撃ち殺したとして死刑の判決を受けている。仲間の方は弁護士の力で死刑を免れたが、犯行を行ったのは仲間の方であり自分ではないと彼は主張する。裁判の過程でシスターは被害者の親たちと出会う。被害者の親たちは何とか死刑を免れさせようとするシスターをどうしてあんな男の助けをするのかとなじる。 この映画の原作は、実在するシスターが自分の体験をもとに書いたものだ。彼女はある会合に出席するために来日し、インタビューに応じて「死刑とは国家が自分自身に対してスローモーションで行う戦争行為だ」と語っている。彼女にとって死刑が許されないことであるのは自明だ。人が人を殺してはならないのは、神様がそれをお許しにならないから。しかし彼女と違いこれといった信仰を持たない日本人の私にとっては、この映画にはついていけない部分がある。それでもここで語られようとしていることを出来るだけ一般的な言葉で翻訳して言ってみるならば、憎しみは憎しみを募らせるだけで、平和も心の平安ももたらさない、ということになるだろうか。 事実子供を凶悪な犯罪者に奪われたこの映画の中の一組の夫婦は、子供の死の受け止め方が違うからと別れることになる。離婚した父親はその事実を、同じ境遇にいる仲間の集いで淡々と語り、子供を亡くした夫婦の離婚率は高いと主人公のシスターに告げる。最愛の人を亡くしたその悲しみを、どう克服するかは残されたものの大変な作業であるし、それを最愛の者を奪った犯罪者への恨みだけで乗り切れるとは限らないのだ。 一方で死刑を求める人たちがいて、主人公のシスターはそれと闘っている。死刑を求める人たちの心には、理解を越えた犯罪を冒す者たちへの憎しみが渦巻いているが、それは死刑囚が最後まで周囲の人たちやシスターに対して心を開くことができない(何があったのか真実を告白しない)のと同じだ(彼の心の中にも憎しみと恐怖が渦巻いている)という風に描かれているように思える。したがって、憎しみを超えて心を開くことができれば、人々は許し合うことができるはずだとこの映画は伝えているようだ。 だがしかし、そこにはまだ一つ問題が残っているのではないだろうか?確かに死刑の執行の直前に至って、死刑囚は主人公に心を開き、実際に行った自分の犯行を告白する。そんな彼を主人公はあなたは神の子となって、神のもとに赴くのだと語る。しかしそれでも、彼のあの残酷な犯行だけは、依然理解を超えた事実として取り残されたままではないか。どうして彼は人を殺してしまったのか。そのまがまがしい犯行の現場を人の原罪の在りかでもあるかのように映し出す映像は、この映画の中でどんな意味を与えられているのだろう。 死刑という制度を支えるものが、怨念や報復だけにあるとするなら、この映画が主張している(かのように見える)ことにそれなりの根拠はあるかもしれない。眉間にしわを寄せていつも弱々しく切なげな表情をするショーン・ペンは、死刑の執行の前に最後の言葉として「私は人を殺すという悪いことをした。(そのことを反省し、残された人にお詫びを言う)人を殺すということは悪いことだ。だから私も殺さないでほしい。」と言う。しかしながら、死刑自体が肯定されるにせよ否定されにせよ、むしろ一般に私的な怨念や報復を超えたところに刑あるいは法というものが設定されているのは、犯罪自体がそうした理解を超えたところで起こってしまうことに対する保障であると考えることも出来るだろう。 |