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死刑制度の廃止に向けて

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 問題を整理するならこうなるだろう。「死刑になるのがいやだから人をころさない」という理由以上の、殺してはいけない理由が求められているとすれば、それは人を殺してはいけいないという自分たちの気持ちを説明してくれるある種の物語だといえるだろう。(そういえば物語という言葉を、『アンダーグラウンド』の村上春樹も使っていた。)犯罪者が、いかにしてその犯行に至ったのかという理由をマスコミが執拗に追い求めるのは、この物語を求める気持ちの裏返しだと考えられる。最初、頑なに自分はやっていないと主張するショーン・ペンは、実のところは何を考えているか分からない他者であり、怪物であり、人非人だ。しかし、理解を超える事件としての犯罪は、さまざまに彼に関わる人たちのさまざまな物語を通じて、最後に物語へと接合されていく。

 ここで物語と呼ばれているものは、実はごく普通に道徳と呼ばれているものと変わらないことに気がつく。道徳とは、ある行いが必ずその人の心の中に報いとしての結果をもたらすと語る物語だ。であるとするなら、「人を殺してはいけない理由がわからない」という高校生の存在は、道徳というものに信用がおけなくなっている状況とパラレルだと考えられる。そこで当然、道徳教育の必要性を説く人が現れたり、日教組による戦後民主主義教育に元凶があるのだといった議論が予想されたりもする。けれども、こうして言い換えられた言葉は、私たちにとっては、もはや大して目を剥くような事件とは思えなくなっているのではないか。私たちはもはや一律に道徳と呼ばれる物語が信用できるとは思っていない。むしろ道徳と呼ばれる物語だけでは現実は成り立たないということを知ることが大人になるということの意味だと、どこかで思っているかもしれない。もちろん、そういう大人が子供に道徳を説くことは、原理として欺瞞でしかありえない。

 にも関わらず、大人がこの高校生の言葉にたじろいでしまったとすれば、全幅の信頼を寄せることはできない「道徳」ではあっても、どこかに超えがたい一線というものはあって、「人を殺してはいけない」という不文律はいわばその最後の防波堤であるかのように感じられるからだろう。いまや「人を殺してはいけないか」という質問は、あやうくなった道徳というものの存在理由自体を揺るがしている。

 で、結局のところはどうなのか。それでも「人を殺してはいけないのか」。
 人を殺さないにこしたことはない、というのがその答えだ。ここで私がそう断言しようがどうしようが、一旦「道徳」が揺らいでしまった状況では大勢に影響はない。けれども、そう私が言いうるのは以下のような理由による。

 私たちが、いろんな人たちと社会生活を送れるのは、大なり小なりそこに他人に対する信頼が存在するからだ。そして道徳とは、この他人に寄せる信頼を言葉にしたものだ。道徳は、それをお互いが守るから成立する約束のようなもので、その意味で抜け駆けは許されない。別の例をあげるならば、それは例えば「赤信号では止まる」という約束ごとのようなものであって、誰かが抜け駆けをする可能性が高まれば、道路には危険が満ち満ちることになるだろう。私がそれを守るから、私たちの間に友愛が生まれるのだ、というのが道徳の物語なのだ。

 だがしかし、それは同時に、たけしが言うように、「赤信号、皆で渡れば怖くない」ような性格のものでもある。どういう状況でそうした「殺人」が行われうるのか、歴史や現実の中で、例をあげるのに苦労はしないだろう。

 もはや私たちは物語を信じるほどうぶではないと思うが、物語から自由であるとも言うことは出来ない。そして、いずれせよ、人を殺すべきではないと、私は思う。

 

  →→→JUMP!
なぜ人を殺してはいけないのか(text/金水正)