君はいま過去の記憶をたぐり寄せようとしている。そこは1970年代後半の大学のキャンパスである。そのキャンパスには『ジン』を翻訳した平岡篤頼先生がまだ健在で、おなじキャンパスを卒業した三田誠広の『僕って何』に描かれたスロープに君はたっていた。君がスロープを上がると、そこは文学部の校舎の囲まれた中庭に通じている。スロープを上がりきったところで君が左の校舎を突き抜けると、そこに図書館があった。キャンパスにはすでに学生運動の熱が過ぎ去って何年もが経っている。『僕って何』という芥川賞作品じたいが、そうしたキャンパスの様子を描いている。文学部の授業の大半はまだ旧態依然であるが、新しい文学の流れはすでに紹介されていた。それはヌーヴォー・ロマンと呼ばれ、アラン・ロブ=グリエは『新しい小説のために』でその流れの旗ふり役と見なされる。時代はまだ実存主義の空気を背負っている。君は、その湿った空気を吸っていた。君はおぼろげに思い出す。ハイデガーの「現存在」は、etre -laとフランス語に翻訳される。そこに在る。そこに在るものを、心理描写に頼らず描き出せ。
屋根の南西部の角を支えている柱の影が、いま、露台の同位角を二つの等しい部分にわけている。この露台は屋根のある広い回廊で、家を三方からとり囲んでいる。中央の部分も両翼も広さは変わらないので、柱によってつくられる影の線は、正確に、家の角に達している。だが影は、それ以上に伸びない。太陽はまだ空高く、露台の敷石だけを照らしているからだ。家の気の壁、つまり正面及西翼の切妻は、まだ屋根によって光線がさえぎられている。(この屋根は、いわゆる母屋と露台に共通のものなのだ。)それでいま、屋根の末端の縁の影は、母屋の角の鉛直の二面と露台とがつくりだしている直角の線に、正確に一致している。
いま、Aは、中央の廊下に面した内扉から寝室にはいった。彼女はいっぱいに開かれた窓の方を見ない。その窓を通して、扉を開けたときから、露台のあの隅を見ることができるだろう。彼女はいま、扉の方をふりむいてそれを閉める。…………これは、白井浩司によるA・ロブ=グリエ『嫉妬』の翻訳だ。白井の引用の中で、ロブ=グリエは語っている。「……この世界は、意味があるともいえぬし、ないともいえぬ。世界は、ただ単にそこに在る。いずれにしてもそこに在る、ということこそ、一番目立つ特色だ。……それ故、(心理的、社会的、機能的)意味づけの世界に代って、もっと堅固な、もっと直接的な世界を建造しようとしなければなるまい。そのような世界の現存によって、はじめて事物や仕草が自己主張をするからである。またこの現存は、説明的なあらゆる理論を超えて、しはいしつづけることが必要である。なぜなら説明的理論は、事物や仕草を、既知の、ある体系の中に閉じこめてしまうだろうからだ。感情上の、フロイト流の、形而上学的の、あるいはそのほかの体系に。」(『嫉妬』、新潮社、1959年、訳者後記)
君は引用した文章が、君が生まれた年の翌年に書かれていることに驚いてみせる。そして君はいま、ふたつのことを思い出している。アラン・ロブ=グリエが心理描写を否定し、存在をあるがままに描くべきだと主張していたこと。そして、そうしたことを知ったキャンパスにおいて、学生運動がすでに神話になりつつあったこと。組織の存在は、いまでは神話の中でしか信じられていなかったことを。
2008年3月10日号掲載
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