追悼*アラン・ロブ=グリエ

ヌーヴェルバーグですら見たこともない人々が大勢になってしまった今(学生がヌーヴェルバーグを見ないで、誰が見るというのだ!)、当然のようにヌーヴォロマンというなつかしい言葉はもはや誰も聞いたことがないものになってしまったのだった。それぞれ男性型と女性型で「新しい」と形容されたこの二つの作品群は、筆者が大学に入学した81年にはまだ圧倒的な力を放っていて、知らない者は大学生でないかのように扱われた――ような気がする。

先日2月18日にヌーヴォロマンの旗手と言われた(というか本人が自らそう名乗った)アラン・ロブ=グリエが心臓病で亡くなったという知らせに接し、感慨というか、当時のあまりの <遠さ> に不意撃ちを食わされたような思いを感じる。

誰も知らない今こそ、古典的文藝同人誌としては追悼特集を組まねばならない、電藝以外にどこが特集するのかと珍しく編集長らしく檄を飛ばし、寄稿をあつめた。あつめたといっても、まあ、あつまっていないのだが、ここはジョイスにならって弔問客が三々五々集まっては去っていく[通夜]形式という苦肉の編集方法で、継続的に掲載していこうと思う。

1年ぶりに連載を再開する日野紀夫の「増築棟」のもまた、あのなつかしい「フランスの新しい小説」へのオマージュとして受け取っていただきたい。

 編集部
2008年3月3日

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ロブグリエ著作

追悼*アラン・ロブ=グリエ  

アラン・ロブ=グリエ Alain Robbe-Grilletは1912年にブレストに生まれた。サロート、ビュトール等と併称される「ヌーヴォー・ロマン」の代表的作家である。ジョイス、プルースト、ジッド等、20世紀の新しい小説手法を大胆にとりいれ、小説の確信を気とし、ロブ=グリエ独自の <視線の文学> を想像した。代表作に『覗く人』(1955)、『嫉妬』(57)、『迷路のなかで』(59)、『快楽の館』(65)などがあり、『去年マリエンバートで』『不滅の女』等の映画シナリオも書いている。……『ニューヨーク革命計画』カバー折込

ブレストに生まれる。1944年、国立農業学校卒業。1954年、デビュー作『消しゴム』を発表。ロラン・バルトが絶賛する(「対物的文学」)。1956年からの新フランス評論誌上の評論で、自らヌーヴォー・ロマンの旗振り役となる。1961年、映画『去年マリエンバートで』で脚本を務める。2004年、アカデミー・フランセーズの会員(座席番号32)に選出される。2008年、フランス北西部カーンの病院にて死去。85歳没。……wikipedia

アラン・ロブ=グリエ『ニューヨーク革命計画』  
本書『ニューヨーク革命計画』Projet pour une revolution a New York は、1970年に書かれた。前作『快楽の館』が香港を舞台に書かれたのに比し、本書は最も現代的な怪物都市ニューヨークが舞台である。殺人、強姦、麻薬、誘拐、スパイ、ポルノ……この怪物都市がもつ最も今日的な風俗の幻惑的なパロディが、独自の <眼> によって鋭く描かれている。理論を拒否し、約束を捨て、視線の自在な移動と想像力の奔出する文体は、不思議な快感と解放感をたたえている。………カバー折込より。訳者(平岡篤頼)筆か。
アラン・ロブ=グリエ『快楽の漸進的横すべり』  
映画における写実性のもっとも根本的な支えとなるのは、映像と音との符合である。靴がベッドから床に落ちれば、それと同時に音がするのは当然である。現実の世界では、この二つは不可分である。ところが、映画ではこの二つを切り離すことができる。そこから、映像だけ示して音を消したり、まったく無関係な映像と音を重ねたり、画面外で対話を交わす人物の声と、彼らの見ている事物なり情景なり心象なりの映像を重ねるということが可能になった。しかし、従来の映画では、そうした手法が、写実的まことらしさを基礎とするストーリー性の枠内で、多少の変化を与えるために、部分的に利用されるにとどまっていたわけだが、ロブ=グリエにあっては、写実的まことらしさが排除されたため、この手法事態がストーリーを生み出してゆく原動力となる。《漸進的横滑り》の最大の推進力が、この映像と音との、交錯しながら互いに駆り立てあう運動なのである。……訳者解説(平岡篤頼)
アラン・ロブ=グリエ『消しゴム』   おそらく読者はこの作品を一読して、奇妙な印象を得られることと思う。この物語は一体何を言おうとしているのか。ワラスとは何者であるか。彼の行なう行為は何を象徴しているのか、等々。そうした疑問に対しては、読者自身の解釈に任せる以外に方法がない。ロブ=グリエの立場は、世界の何らかの意味づけに反対するところにあるわけだから、そもそも何かの意味を教えられようとし期待してこの作品を読めば、失望するのは当然だろう。
たしかにこの小説は、幾通りもの読み方が可能である。純粋に風変わりなスリラー(あるいはそのパロディ)として読むこともできるし、エディポスの神話を下敷にした(ワラス=エディポス、酔っ払いの男=スフィンクスという公式を重大に考えようとする批評家もある)ひとつの象徴的な寓話として読めないこともない。さらには、ワラスという男の無意味な行為を通して、人間の存在そのものの不条理性を表現しようとしたと考えてもいいだろう。………………解説(三輪秀彦)
アラン・ロブ=グリエ『迷路のなかで』   しかし、ロブグリエの作品は、一作毎に変化し、進歩しているようである。それに応じて、すこしおくれて、彼の小説観も変化してきている。今日では彼は、純粋に客観的な描写というものは存在せず、「いつでもまず、それを見る視線、それを思い浮かべる思考作用、それを歪める情念」が描写の背後にあり、これらの描写の興味は、「描かれたものよりは、むしろその描写の運動事態のなかに」ある、大切なのは「イメージ自体の性質ではなく、その構成である」と考え、彼の意図するヌーヴォ・ロマンは、「徹底的な主観性しか目ざさない」(『新らしい小説のために』一九四六)と断言している。そのような理論の証明の下に、『嫉妬』やこの『迷路のなかで』(一九五九)を読むとき、目くるめくような幻惑的な、詩的な小説の構造も、きわめて理解しやすくなるが、やはりここでも、実作が理論に先立ったものも、私は解釈する。………………解説(平岡篤頼)
アラン・ロブ=グリエ『Djinn』   (...) Et voici, en ce debut du printemps, un excellent Robbe-Grillet, Djinn, qui est a la fois gageure et revelation. ………“Djinn”(Les Editions de Minuit)バックカバー(Jacqueline Piattier, Le monde, 20 mar 1981)

 

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