小説を読むたのしみはさまざまあるけれど、なんといっても醍醐味のひとつは、自分以外の人が世界をどんなふうに眺めていて、それをどんな言葉を積み重ねて書き記してゆくか、という点にあると思う。
ちょっと想像してみよう。仮に、或る男が起きてから眠りにつくまでの一日を、いろいろな作家に書いてもらったらどうなるだろう。ある作家は、男の一人称で彼が見聞きするものをハードボイルドに描くかもしれない。また別の作家は、映画のカメラが人物をとらえるように、外側から見た彼の行動を、ただそれだけを淡々と記すかもしれない。
時間の流れ方も書き手によってさまざまにちがいない。ある書き手は男の言動のうちに興味あるものを選び出して使い、また別の作家はできるだけ忠実に男の言動を書き写すかもしれない。原稿用紙1枚で男の生きている時間を半日進める者もあれば、300枚を費やして3時間をじっくり執拗に描出する者もいるだろう。
男の部屋はどうなっているか。そこに置かれたものをどこまで描くか。彼が外出したとき、道端に生えている雑草や樹木のことを作家は書きとめるだろうか。すれちがう通行人や犬は、風のにおいは、どこかから聞こえてくる廃品回収車の口上は……などなど。
そう、まったく当たり前のことながら、或る男が生きる12時間なら12時間を、言葉で描くやり方には無数の可能性がある(あなたが最近読んだ作家のことを思い出してみよう)。そしてどのように描いたとしても、それはその男が生きた12時間のどこか一部を選び取ることになる。例えば、瞬間瞬間の男の全身がとる姿勢や生物的な状態――心拍数やら脳波やら尿意やら空腹やら痛みやら――だけを描こうと思ってもまるできりがないことだし、たいていの場合、そのような退屈な描写はあっさりと省略されるに違いない。
いまさらなにをという話だけれど、小説は、そこに登場する人びとや世界の動きのなかから作家が選び取ったものを書き記した言葉のあつまりにほかならない。だから、或る男の一日の総体(そこにはその一日のあいだに世界や宇宙で生じたすべての事象も含まれる)から、なにをどのように切り取ってくるかということに、おのずと作家の意図や技法や無意識が映し出されることになる。言いかえれば、その小説のなかで、作家がどのように世界を眺めている(ことにしようと考えた)のかということが、小説の文面には隠れようもなく表現されているだろう。
ああヤヤコシヤヤコシ。なぜこんなシチメンドウなことを言うのか。そんなことはきれいさっぱり忘れて小説の世界に没入したらエエじゃないか。いやいや、ごもっとも。筆者もたいていの場合は、余計なことを考えずに、どうかすると自分がいま小説を読んでいるという意識を失念するくらい夢中になっている。現にいま読んでいるジョン・スラデックの『蒸気駆動の少年』(柳下毅一郎編、河出書房新社)やエンリーケ・ビラ=マタスの『バートルビーと仲間たち』(木村榮一訳、新潮社)なんてモウ……いや、この愉快な小説についてはまた別の機会にお話ししよう。
話を戻すと、こんなふうにちょっとメンドウなことを書いているのは、オオゲサな言い方をすれば、これこそがロブ=グリエの小説が改めて文学史につきつけた問題であり、読者としてはそこにロブ=グリエを読むたのしみがあるからだ。要するに、なんのかんのと申すのは、ロブ=グリエの小説の愉悦をお伝えしたいからなのであった。
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フランスの作家アラン・ロブ=グリエは、文学史のうえでは「ヌーヴォー・ロマン」の中核を担った作家と位置づけられている。ヌーヴォー・ロマン? そう、「新しい小説」のこと。それも、1950年代半ばに始まった「新しい小説」の試みのことだ。
文学に限らず、芸術や映画の歴史をながめていくと、いくつもの「新しい波」が現れては、波紋を起こしていったことがわかる。でも、「新しい」という言葉は、相対的な言葉だ。出現したときは新しかったかもしれないが、時代がうつろえば、それはまた過去のものになる。そう、もしもその「新しさ」が後続の「新しさ」によって打倒されてしまうものであれば。
反対に、その「新しさ」の衝撃が強力であればあるほど、その波紋はずっと後まで残響しつづけ、後続の作品に多大な影響を及ぼすことになる。例えば、美術史上でマルセル・デュシャンがしかけた「泉」(1917)――男子用便器に署名をした「作品」――の衝撃は、おおげさでなく美術の歴史をデュシャン以前と以後にわけてしまったのだった。おかげでその後、美術館にはゴミなのか作品なのかよくわからないもの――いや、美術館に置くことで作品になっているというわけなのだが――があれこれ並ぶことになった。
では、ヌーヴォー・ロマンはどうだろうか。その新しさは、半世紀を経た現在、すっかり埃をかぶってしまったのだろうか。
これに続くはずの拙文では、これから初めてロブ=グリエを読もうという読者に、一杯の食前酒をご提供できればと思っている。
とはいえ、ロブ=グリエの小説の多くは日本語に訳されているので、読者はここでさっそく席を立ち、彼の小説を手にしてくださったらそれがなにより。ただ、残念なことに新刊書店で手に入りそうなのは、『迷路のなかで』(講談社文芸文庫)、『反復』(白水社)の二冊。運がよければ『覗くひと』(講談社文芸文庫)に出会えるかもしれない。
2008年3月17日号掲載
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