ヴィデオゲームの〈発展〉とは、
ゲームをゲームたらしめようとしてきた、
執拗な意思の積み重ねの歴史にほかならない。

「ディノクライシス」(プレイステーション版、カプコン)には、見たところ、これといった新しさが存在していないように見える。

 人はこのゲームを否応なく「バイオハザード」と比較するが、それも、舞台から展開から難易度まで、すべてが似すぎているからだろう。そしてコントローラ操作の体系もほぼ同一といえる。

 だが、この順序を取り違えてはいけない。「ディノクライシス」の操作体系が「バイオハザード」のそれと同一であることは、2つのゲーム内容があまりにも似すぎていることの帰結としてあるのではない。つまり、舞台や展開や難易度、そしてシステムが「バイオハザード」と同じだから操作方法が同じなのではなく、むしろ逆に、「バイオハザード」と同一の操作体系のゲームとして構想されることによって、あまりにも似すぎているゲームとしての「ディノクライシス」が導かれているのである。

 ヴィデオゲームの最大の限界は、それが、プレイヤーを表象するオブジェクトを操作することによってしか成立しないという点にある。たとえ、「三國志」や「シムシティ」のような、パソコンゲーム系の数値操作によるシミュレーションゲームであろうと、数値操作によって <国家> や <企業> や <都市>といった対象物の状態を管理していくことには変わりないだろう。あるいは、「がんばれ!森川君」のような <操作しないこと> によって逆説的にゲームたらしめようとする試みもまた、ゲームが操作することによってはじめて成立するものであることの証明にしかなっていない。

 だから、もしかりにヴィデオゲームがなんらかの発展をとげてきたのだとすれば、それはむしろ、操作を行う表象オブジェクトが、 <テニスのパドル> や異星人を撃墜する <レーザー砲> を経て、個性や物語を課された <PIT> や、多様なマネジメント側面をそなえる <国家>、<企業>、<都市> までをフォローするようになっていったという表層をみるのではなく、ありとあらゆる表象オブジェクトの可能な動作と操作性との身体論的関係にこそ注目しなければならないだろう。それはすなわち、ゲームをゲームたらしめようとしてきた、執拗ともいえる意思の積み重ねの歴史にほかならない。

 この意味で、「ディノクライシス」/「バイオハザード」の操作は、ひどく単純化された、おそらくは難易度の低いものといわなければならない。「バイオ」以後に生まれた優れたアクションアドベンチャー、たとえば「メタルギアソリッド」「サイレントヒル」のようなもの比較して、<本家>たる「バイオ」の操作体系──ランニング、アイテム入手、銃発射、アイテムウインドウ開閉といったもの──には、たしかに単純な力強さというべきものがある。とくにキャラクターの向きと方向キーの関係が「バイオ」とほかのゲームでは正反対になっていること、プレイの視界角度を変更する操作(システム)が「バイオ」ではかたくなに拒まれていることは、「バイオ」においては、ゲーム上の物語よりも、場面 と場面を結んでいく演出──というか、入力デバイスの操作のみによってゲームを展開していくダイナミズム──にこそ重点が置かれていることを如実に示している。

 ちなみに、「ディノクライシス」/「バイオハザード」の対局にあると思われるのは、「トゥームレイダー」と名づけられた、極度にマニアックな身体戦略を追求するゲームである。「トゥームレイダー」は、実のところ、その点で「オメガ・ブースト」、あるいは「グラン・ツーリスモ」、あるいは「サルゲッチュ!」、あるいは「ソウルキャリバー」といったゲームと同列に並ぶべきものだが、どういうわけか、それら──シューティングゲーム、レーシングゲーム、アクションゲーム、格闘ゲーム──において欠くことのできない中心たるべき <時間性>(<リアルタイム> 性)というものを完全に欠いた、奇型としてのアドベンチャーゲームなのである。

 

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