ゲーム性は、ゲームを持続する操作そのもの
からは生まれ得ない。
「バイオハザード」とまったく同一の操作体系に基づくゲームとして成立している「ディノクライシス」をプレイするとき、プレイヤーはゾンビならぬ
恐竜の動きの鮮やかさにこそ感銘を受けなければならない。
実のところ、映画「ジュラシックパーク」や「ロストワールド」等々に馴れたわれわれの目には、さほど大きな驚きをともなってそれを見ることはありえないのだが、それでも、おそらく「ディノクライシス」というゲームを開発す
るにあたって、最大の相当な工数が、この部分にこそかけられているはずなのである。「バイオハザード」「バイオハザード2」のゲームクリアにおいて最大の阻害となるのは、ゾンビではなく、犬やカラスであろう。またゾンビのうちでも、両手を持ち上げた体勢で、ゆらりと廊下に佇んでいるやつではなく(肩を中心に思わぬ
スピードで振り返ったりもするあの体勢は、もちろん映画の中から引用されたものだろうが、そもそもは何に由来するのか?)、死体(はじめから死体なのだが)を擬装して床に横たわり、足首に絡みつくゾンビである。
ゾンビに足に絡みつかれると、画面の中のキャラクターは急に動けなくなる。そのままにしていると、やがて押し倒されてしまい、のしかかられて、喉笛を食いちぎられてしまうのである。犬の場合は、離れた場所から助走して飛びかかってくるため、銃で狙っても弾がそれやすい。飛びかかられると、やはり押し倒されて、喉を狙われる。カラスの場合は、単体が小さいので、集団での攻撃になる。襲われるとキャラクターは頭を抱えた姿勢になってしまい、やはり攻撃行動に移れない。
これらの共通点は、プレイヤーによる操作を無効にするという点である。「バイオハザード」の単純な操作体系が多くのライトユーザーにとってそう受けとられないのは、そのゲーム性が、単純な操作体系のみでなく、逆にこのような操作の無効化と対になって形成されているからにほかならない。
まったく当たり前のことを書いているようだが、ゲーム性は、ゲームを持続する操作そのものからは生まれ得ないのである。にもかかわらず、操作を欠いたところにゲームが成立しないという点に、ゲームというものの逃れがたい退屈さがある。
ゲーム性とは、なにか。
それは、ゲームをゲームたらしめようとする、信じがたく楽観的な意思にもとづいて、プログラムの中に埋め込まれる、ある特性である。
ゲームはいかにしてゲームになるのか。
ゲームをクリアするということが、なぜ <物語>
の終わりに置き換えられるのか。
これまでに述べたことと同様に、この点も、「ウンジャマラミー」のような音楽ゲームや、「ぷよぷよ」のようなパズルゲーム、「オメガブースト」のようなシューティングゲーム等々、ジャンルにかかわらず、ほとんどのヴィデオゲームがそなえる共通
点であろう。 <物語> は、謎解きであるアドベンチャーゲームや冒険譚であるロールプレイングゲームだけのものではないのである。ゲームの進行が、物語を読むことに重ねられること。ただし、もちろん例外はある。たとえば「I.Q」、「リッジレーサー」など。
ヴィデオゲームの作り手にとって、 <物語>
は、おそらく <キャラクター> によってもたらされる。キャラクターとは、ヴィデオゲームの文脈でいえば、<成長>
を課された存在であり、ヴィデオゲームのプレイとは成長のための<ディシプリン>
にほかならない。
つまり、クリアの過程で難易度を上げていき、繰り返されるリプレイによるディシプリンとしてのプレイ、そしてディシプリンの集大成としての<ボスキャラ>
戦というのが、ヴィデオゲームがその成熟の結果に到達した <物語>
の元型であった。
そのように、あらゆるヴィデオゲームは、それぞれが属するジャンルにかかわらず、一種のRPGであり、プレイヤーは自身の
<経験値> を上げていくことによって、ワンランク上のアイテム(ウェポン)を入手し、
<レベル> を上げていくことであるのである。
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