あ ら す じ

 愛は、恋が退室したせいで、数々の愛久の尻拭いを背負わされる羽目になったのだが、気にはならなかった。それより気になることがあったからだ。

 愛にはわかっていた。愛久が恋にどんなことを言ったのか。恋は愛久の説教を押しつけたように見えて、それが本意ではないということや、恋が愛のためにショックを隠そうとしていることまで。戻ってきたら慰めてやるつもりだが、その方法が難しい。隠そうとしていることには下手に触れないのが思いやりだろうか。

「……利羽君の怪我は、かすり傷だったようだね」

 無言で庭の紅葉をにらんでいる愛久は、どんな話題で話しかけても口を一文字に結んでいるだけだ。何を言っても駄目だとわかっている頭の隅で、事実を早く明かして、すべての非が愛久にあるわけではないことを明らかにしたいと急いていた。

「白崎……愛久さんでしたよね。あ、あの、どうかなさったのでしょうか……」

 美静が愛に向かって心配そうな目で尋ねる。容貌は不良外人、しかも甥っ子を殴ったとされる男には直接声をかけづらいのだろう。

「利羽君には申し訳ないことをしてしまいました。愛久はどうも暴力に訴えがちな節がありまして……。教育不足ですね」

「いえ、そんなことはありません。私の姉もご迷惑をおかけしましたから、これでおあいこです」

 愛は思わず吹き出した。

「ど、どうかされましたか?」

「すいません、あまりにも可愛らしいので。……有難うございました」

「え、私、何もお礼を言われるようなこと……」

「さっき私が捜査意欲をなくしていた時も、そして今も、沈んでいた気分を立ち直らせてくれました」

 仕方ない、「迷っていたのは愛だけだ」という恋の言葉を飲み込むとしよう。美静が来てくれたことに礼をすべきは愛なのだ。なるべく美静をほんわかさせるイメージの笑顔を浮かべたが、どうしても愛久の件が気になってしまい、険しい顔に戻ってしまう。

「……それにしても、愛久の面倒は、母からも任されていたのに……。本当にごめんなさい」

「……任されていた?」

 美静は、少しずれたところに引っかかる。

「母は海外で暮らしているんです、父と一緒に。日本には私たち兄弟だけ残っています」

「すごいですね……私には真似できないわ」

 感心してきらきら輝く眼差しを向けられるのに悪い気はしないが、くすぐったい。

「白崎さんたちを見ていると、その……すごく憧れます。素敵です。私は、弟や姉の考えていることがわかりませんから。衛とはあまり遊んであげられなかったし、美郷もあんな風になってしまったし……」

 美静が悲しそうに言うのを聞いて、今度は自分が美静を励ます番だと愛は思った。

「美静さんは、衛君の事件を早く解決したくて、私たちを頼って下さったんです。十分、姉弟思いだと思いますよ。美郷さんとはこれから徐々に理解しあっていけばいいと思います……」

 そう言っている頭の隅で、一つ、愛は考えごとをしていた──美郷は愛久と利羽とこのリビングにずっといたはずだ。愛久が利羽を殴ったいきさつも知っているに違いない。

「ちょっと失礼」

 その美郷がリビングを出ようとしているので、愛は唐突に会話を終わらせ、慌てて美郷を呼び止めた。

「どこに行かれるんですか?」

「部屋だよ。自分のへ・や」

 不機嫌そうに眉間に皺を寄せている。

「でも、これからお夕飯でしたよね?」

「いらない」

「そうですか……ですが、このまま戻られると個人行動になってしまいますし、少しお聞きしたいこともあります。お部屋に戻られるのはそれからでは駄目ですか?」

「駄目だねぇ。アンタと話なんかしたくないよ」

 意地悪い笑みで言いきると、愛の静止も美静の注意も聞かずに自室に帰ってしまった。仕方がない。これ以上反感を買うのは得策ではないので、後のチャンスに賭けるとしよう。美静も困った顔をしていることだし。

 と、美郷が勢いよく閉じたはずのドアがまた開いた。入って来たのは利羽だった。

「利羽君……!」

 利羽はちらと愛を見たが、無反応で通り過ぎた。トンボ柄の茶碗が四つ乗ったお盆を、テーブルの上に置くと、やはり黙ったまま椅子に座る。言葉を交わさないように言われているのだろう。

 思わず愛久の表情をうかがう。愛久は、利羽に対して悪いとか気が引けるとか、そういう感情を持ってはいないのがありありだった。心底不思議そうに腕を組んで考え込んでいる。

絆創膏ばんそうこうが──」

「はい?」

「……」

 今の独り言は何だったのだろう。

 利羽の開けたドアが閉じきる前に、跳ね上がるようにまた開いたかと思うと、今度は俊子と恋が飛び込んで来た。

「──絶対に、児童虐待で訴えてやるぞ!」

「それはこっちの台詞だね!」

 穏やかでない単語だ。まさか、愛久を訴えるとでもいうのだろうか。

 

2006年2月6日号掲載

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