あ ら す じ

 ボタボタと流れる血の源流は、愛の脇腹に突き立ったナイフだった。

「愛ちゃん!?」

「……愛! どうして……」

 唖然あぜんとする恋に、愛はにっこり微笑んだ。

「恋が何を考えるかなんてわかりますよ? 私は、恋の双子の兄弟ですから」

 変な表現だが、恋は、まさに鳩が豆鉄砲を食らったように目を丸くして、かなり驚いたようだった。

「及ばずながら、推理させて頂きました。恋は、証拠をつくらせると言った──それは現行犯で捕まえるということ、つまり目の前で利羽君に犯罪を起こさせるということだとね……」

「……どけ!」

 恋は、珍しく力ずくで利羽を引き離し、膝から崩れるように倒れた愛を支えた。

「──読んでいたの?」

 思いのほかしっかりした声で利羽が尋ねた。立派だ、この子は本物の犯罪者だ……愛は薄れゆく意識の中でぼんやりと思った。

「あぁ……君が菫を刺そうとするところまで、しっかり、読んでいたさ──」

 恋は、声も、肩も、震えている。愛を抱えている、血で真っ赤に染まった手も。支えている恋のほうが今にも倒れそうだ。

「利羽君、やっぱり君は天才だよ。僕の口を封じるのに、僕に直接ナイフを向けるようじゃ駄目だ。力の差もあるし、かわされる可能性も高い。だがハニーを狙えば、僕は自ら刃の前に体を投げ出すだろう。愛を狙えば僕が助けなくても逃げられるだろうし、僕もそれがわかっているから身を挺さない。一方、菫は僕が愛しているか弱い女の子だ。……だけどね──僕は、君がそこまで読んでくるだろうと読んでいたんだよ」

 別件逮捕になってしまうが、これで利羽を捕まえることができる。美郷たちの命も守れる。恋は進んでおとりになろうとしていた。愛はそれがわかっていた。

「僕が犠牲になれば済んだことなのに……愛の馬鹿野郎。大馬鹿野郎」

「すいませんでした……」

 ちゃんと笑えていただろうか。恋を不安がらせないために笑顔をつくったのだが、力が入らず、中途半端になってしまっていたかもしれない。引きつった頬に、恋の涙がパタパタと落ちて来た。結局、恋を悲しませてしまったらしい。

 少し遠くで、利羽が、ちぇと舌を鳴らした音がした。恋の耳が動いた。

「……まぁ、ぼくは負けていないけどね。ぼくは捕まったってたいした罪にならないんだから……」

「そうだね。僕は法律なんて知らないけど、子供はあまり重い罪を問われないかもしれない。世間は事件を忘れて君を受け入れ、法律上では罪を償ったということにすぐになるかもしれない。でも──」

 恋は利羽をにらみつけた。その目は、今までで最も恐ろしい、怒りの炎が燃えたぎった緑色だった。

「誰が許そうと、僕は絶対にお前を許さない──。一生」

 利羽が息を呑んだのが、愛にも感じられた。この言葉で、ついに利羽は肩を落とし、完全に黙り込んだのだった。

「……よかった……」

 愛は久しぶりに安堵の表情を浮かべ、目蓋まぶたを閉じた。

 フランスにいた頃の、手入れの行き届いた庭で遊んでいたときの記憶が脳裏に映し出されるのは、恋の温もりのせいだろうか。それとも、死ぬ間際になると楽しかった思い出が蘇るという走馬灯現象だろうか。

 入院は退屈だ、と美郷は思った。

 そりゃもちろん入院した当初は、具合が悪くて入院しているのだから、暇だなどと言っている余裕はない。不平不満が出てくるようになれば、回復した証拠だ。

 だが、ずっとベッドの上に寝ていなければならないなんて性に合わない。それに、ずっと静かな部屋で白いシーツを眺めていると、悲しい記憶ばかり蘇ってくるのだ。こんなときはカラオケにでも行って喧騒の中にいた方が落ち着く。

 今回の事件は、これが現実なのだと簡単に納得などできない。かりにも血を分けた親戚によって実の妹と弟が命を奪われるなんて──。いつまでも子供で、夢ばかり追っていた不良少女の美郷にとって、あまりにも残酷な現実だった。

 すべては、利羽と義母に仕組まれていた。

 群馬になんか来なければ──それ以前に、利羽が養子に来なければよかったのだ。もしも養子に来たのが違う子供だったら、俊子の命令に逆らったかもしれない。衛や美静を殺すのに失敗したかもしれない。もしああしていたら、ああなっていたら、という話に首を絞められながら、美郷は今さらのように、妹弟ともっと過ごすべきだったと心底後悔していた。衛とはちっとも遊んでやらなかった。美静とは、ここ数年まともに会話を交わしたおぼえもない。美郷のことをどう思っていたのかもわからずじまいだ。

 わからないことはまだある。

 あの名探偵崩れの狐。は病院中の噂になっている推理ショーを伝え聞いたかぎりは、犯人である利羽も化かされてあざむかれたようだ。

 事件を解決したのはたしかに狐らであるのだが、狐ははたして味方だったのか、今も答えが出ない。僅かな時間しかともにしていないが、どうにも信用ならない。そもそも探偵というのは、他人の揉めごとに首を突っ込んで楽しむ、野次馬の進化形みたいな存在じゃないか。

 まぁいい。自分を助けようとしてくれたのは事実みたいだし、もう一生会うこともないだろうから、ここは美化して心に残しておくとしよう。

 コンコンコンコン──四回続けて叩く、せわしないノックの音が飛び込んで、美郷は時計を見た。まだ看護師が来る時間ではない。

「どうぞぉ」

 気の抜ける声で返事した直後、扉は開いた。

「ども」

「……!!」

 見舞い客はあの少年だった。緑色の髪と目、面倒臭そうな手の振り方。

「き、狐……!?」

「やめてよ。うどんが歩いてくるわけないでしょ」

 わかりにくい冗談を言い、一人で笑い転げている。手に小さな白い箱をぶら下げた、緑色のセーター姿の恋が立っていた。頭痛がしてくる。

「……一生会わないと思ったばっかりなのに……」

「なに、もう会わないだろうと思っていたトコだって? そりゃタイムリーだった。さすが僕」

 恋はまた一人でコロコロと笑った。美郷は開いた口がふさがらない。

 呆然としていると、その後ろに、恋の肩を叩いてなだめる少年の姿があるのに気づいた。

「恋。病室で騒ぐと迷惑です」

「……一人部屋なんだから、いいじゃないか。いちいちうるさいな、愛は!」

 まっとうなことを言っているのは、恋より背の高い双子の弟、愛だった。癇にさわる微笑はあの時のままだ。

「こんにちは、美郷さん。お久しぶりです。ご機嫌いかがですか」

「……たった今、悪くなった」

「そうですか……それは困りましたね」

 困ったように見えない笑顔で近づいてくると、愛は美郷の毛布をかけなおした。触るなと睨むと、「失礼、つい世話を焼く癖があるものですから」と言って笑った。兄が兄だから仕方ないのだろう。

「ひどいな、美郷ちゃん。僕が体を張って命を守ってあげたの、忘れたの?」

 恋はいつの間にかベッドサイドの椅子に座って、足を揺らしながらイラつく声で言った。美郷の態度が不服なようだ。

「恋。体を張ったのは私です」

「大げさなヤローたちだな。全治一週間だったらしいじゃないか、しかも怪我で寝ていたのは実質五日。みっともない大騒ぎだったらしいけど、ねぇ?」

「結構な重傷だと思ったのですが」

 からかう視線を向けると、愛は苦笑した。昔の刑事ドラマの殉職じゅんしょくシーンのようなやりとりも、推理ショーと同じく病院中の噂になっていた。

「おかげさまで、卒業には響かないようです」

「そりゃ何よりだね」

「はい。日ごろの行いが良かったですから。私ってば優等生ですし」

 恋が愛の口調を真似てふざけた。この双子、声がそっくりだと今さら気がついた。愛が怒って一度足を踏み鳴らすと、恋は脱兎のごとくベッドの反対側に逃げた。そして、思い出したように、

「忘れていた。これ、愛久から」

 と言い、手に持っていた箱を美郷に差し出した。

「『今回は役に立てなかった上に、犯人に都合が良い様に動いてしまった。鬼塚の妹にも謝っておいてくれ』──だってさ。愛久お手製、ブッシュドノエル」

 愛久のクールな表情まで真似しながら、恋はふたを開けた。そこらのケーキ屋よりずっとうまそうな、ココアパウダーたっぷりのブッシュドノエル。上に載っているサンタ人形のつぶらな瞳が可愛らしい。愛は、美郷が見つめているのに気づいて、嬉しそうに顔をほころばせた。

「あ、そのサンタさん、愛久が昨晩マジパンで頑張って手作りしていたんです。食べてあげてください」

「……あの男、似合わねぇ……」

 美郷は笑いを我慢できなかった。涙目になるまでひとしきり笑ったが、いつもの反語も忘れない。

「悪いと思うなら、直接謝りに来いっての!」

「愛久はパーティのご馳走作りに忙しいので。今日はクリスマスですからね」

 美郷は、何年かぶりに、クリスマスという行事を思い出した。ずっと家族と過ごしていなかったのだと思うと、切なくなった。

「……さて、帰ろうかな」

 美郷が考え込んでいると、恋はあくびして、さっさとドアを開けた。かなり不機嫌なご様子だ。飽きっぽいのだろう。

「おい、何しに来たんだよ。もう帰るの?」

「知らないよ。僕は忙しいんだ。今日はクリスマスだよ? わが家でパーティの予定なんだ。ハニーが待っているし、僕はこんなところに来たくなかったんだから……」

 かなり失礼なことを堂々と言ったが、ハッと気づいたような顔をすると、愛の袖を引いて美郷の横に連れてきた。

「そうだ。愛が、用があるって言ったんじゃないか」

「……狐の弟が……?」

 かなり怪しい。いぶかりが顔に出たらしく、愛は頬を赤くしている。

「僕はもう行くから。電車に間に合うようにしろよ」

 ドアが乱暴に閉まった。

 病室は二人きりになった。

 嫌な沈黙が流れる。

「……何の用だよ?」

 愛がなかなか切り出さないのにしびれを切らして、美郷から問うた。愛は笑えるほど真面目な瞳で美郷を見すえ、深呼吸した。

「私の口から、こんな大事なことを伝えていいのか、悩んだのですが……どうやら私以外に伝えられる者もいないようですし……」

「……な、何だ」

「美静さんが最後にに私と交わした会話です」

「最後の……会話?」

 愛はまた深呼吸した。そしていよいよ決心したように、

「美静さんは、あなたとの関係をうまく築けなかったことを後悔していました。あなたのことを心配されていたようです」

 一息で言った。美郷が一瞬わけがわからず、ポカンとしていると、愛はこう続けた。

「ですから、これからは、天国にいる美静さんに心配をかけないように努力してください。それが美静さんへのはなむけだと思います。それに……お母様は今回の事件で深く落ち込んでいらっしゃると聞きました。同じ事件を経験したあなたが立派に立ち上がることでしか、お母様は癒せないのです」

 美郷は目が潤むのを感じた。あわてて拭ったのを見て、愛は微笑んだ。

「私は、ありきたりなことしか言えませんし、演技力がないので美静さんの思いを正確にお伝えすることはできませんが……やっぱり、これを伝えにきてよかった」

「なんで?」

「あなたを、事件のことで、これ以上苦しめずにすみますから」

 美郷が喋れなくなったのを見て、さようなら、と言い、愛はゆっくり部屋を出た。美郷がすすり泣く声を背中で聞きながら、駅を目指して歩きはじめた。

「馬鹿……あのシュチュエーションは普通、愛の告白だろう!? 変に期待させやがって……」

 もちろん、泣き止んだ後の美郷のひとことが、愛の耳に入ったわけはない。

 

 あとは美郷を一人で泣かせてあげようと愛は思った。美郷のことだ、泣き顔を見られたくないだろう。自分がいては邪魔である。

 加害者のトリックを暴くのに執心するのではなく、被害者の立場でアフターケア。愛の目標とする探偵像だった。

 不良であった美郷は、きっと妹がどう思っていたかを気にしているだろう。だから、美静が生前、これから姉と仲良くしていこうと思っていたことは、きっと良い慰めになると思って、群馬を再訪問したのだ。美郷や姉妹の母親の悲しみの鎖がそれで断ち切れるなら、幸せだ。

 

「遅い!」

 駅のプラットホームで寒そうに手を温めながら、恋はふらふら歩き回っていた。愛が走って行って、遅れたのを謝るなり怒鳴った。

「電車、一本見送ったぞ。ハニーから抗議のメールも立て続けに二十八通来て」

「すいませんでした。落ち着いてください」

 声が響くのだ。案の定、電車を待つ客たちの視線が一気に集まった。

 恋はムスッとした顔を電車が来る方向に固定した。ベンチに座って足を組み、その膝に頬杖をついて。愛はそっとその横に座り、優しく微笑みかけた。恋にも伝えたいことがあるのだ。

「恋」

「謝んなくていいよ、もう」

「違う、そのことに関して謝るつもりじゃなくて」

「違うのかよ……それはそれでムカつくなぁ」

 恋はかったるそうに大きなあくびをして、「で、なに? 早くしてよ」と目で訴えた。愛はさっき美郷の病室でしたように深呼吸した。

「私、今まで、恋のことを誤解していました」

 恋は相槌あいずちもうたず、遠くを見つめている。何も言わないということは続けていいということだ。愛は、三度、深呼吸した。

「ごめんなさい。今まで恋は、人間に興味がないものだと思っていました。でも、今回の事件で、美静さんのお母様を助けたり、最後は自分の身を挺してまで新垣さんのことを守ろうとしたり……勘違いだったってわかったんです。大体、赤の他人のためにたくさんの謎を解いてきたのですから、思いやりがないわけがないんですよね。本当に失礼な勘違いをしていました。新垣さんや愛久の方が、まだ恋の本心を分かっていた。美静さんに向かって兄弟を理解する大切さを偉そうに説ける人間じゃなかった。ごめんなさい」

「……僕にあるのは謎に対する好奇心だけ。人間なんかに興味ないよ」

 照れ隠しに見えない無表情で、恋は自分が善人であることを否定したが、愛は首を振った。

「恋は優しいんです。それを隠さないでください。……それと、もし、よろしければ……私はこれからも、恋と一緒に、迷宮に迷っている人の道案内をしていきたいです」

 恋はしばし黙っていた。愛が不安になって覗き込むと、すぐに花もほころぶ笑顔で振り向いた。

「永久永劫、僕と愛が協力する。それがいいのだ!」

「……最後の最後まで、他人の漫画のセリフを流用しますか?」

「……それでいいのだ」

 頬を赤らめ、また電車の来る方に視線を戻してしまう、自信家に見えて、実はそうでない。裏表に奥行きがある兄の一番のよき理解者でありたい。愛はそう強く願い、手を温めるふりをして祈った。

HAPPY END

 

2006年5月29日号掲載

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