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【'02.05.20号】
渡辺信二

渡辺信二『詩集 もうひとつの鎮魂歌』(本の風景社)1,200円

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 久しぶりの詩ペデである。長らく中断していたのはネタ切れがその理由だが、また時々は新刊詩集などについて紹介していきたいと思う。
 今回は渡辺信二氏の新詩集『もうひとつの鎮魂歌』(本の風景社)が出たことについて。
 渡辺信二といっても知らない人がほとんどだろうが、ぼくがその才能を高く評価する詩人である(偉そう?)。アメリカ文学者でもあり、その領域での著書も持っている。専門はアメリカ詩。また立教大学で英語を講ずる教授でもある。詩人としては、『遙かなる現在』(1984年国文社)、『愛する妻へ』(1989年思潮社)、『不実な言葉/まことの言葉』(1991年書肆山田)、『まりぃのための鎮魂歌』(1993年ふみくら書房)、"Spell of a Bird" (1997 New York:Vantage Press) と5冊の詩集を持っている。最後のものは自身の詩を自ら英訳したもの。
 ぼくは同じ同人誌に所属していたことがあって、何度か同人会でお会いする機会があり、詩集などもやりとりするようになった。今はどちらもその同人誌をやめているのでお会いする機会はなくなったが、今回の詩集もお送りいただいた。
 ぼくは最初、第2詩集『愛する妻へ』に収録されることになる作品群を同人誌上で読んでその詩に強くひかれた。その詩集は、その題名からロマンチックな作風を想像するかも知れないが、そんな一筋縄でいく作品ではない。ここには現実の妻は出てこない。そして近親の死が様々に変奏される。一編引用してみよう。『愛する妻へ』には全ての詩にナンバリングがなされているが、その「2」。

2(留学先で思う)

ひとに いのち あり
 ゆえに 死ぬ
  だけで 済まない ひとの生き死
アメリカに渡り
 暖かいダウンのジャケット
  小さな町イサカのマクドナルドで75セントの
コーフィーを買い トリプルAを待つ 冬の夜
 おれの考えるのは この寒さでも
  この故障した車のことでもなく
ある女のことだ
 ひとに 愛 あり
  ゆえに 許される
だけで 済まない ひとの心を抱えて
---日本からの消息 ちょうど その時
東京のはずれ小平で このひとは
空へ 身を投げました
遺書はありませんでした
正しくは 親達が処分しました

   お父さん お母さん どうか 先立つ不幸をお許しください
   きっと分ってもらえないでしょうが わたしはもう薬で頭を
  ぼうっとしてるのが嫌になりました だから 薬をやめました
   そしたら 頭がすっきりして 声が聞こえて 空が わたし
  を呼びます わたしは空です わたしの名前の由来 空の空
  くうのくう からの空 わたしがほしい 青空が 夜空が 星
  空が わたしがほしいと言いました だから わたしは行きま
  す
   わたしでよければ 受け取って下さい せめてのもの償いに 
  この十九年間 わたしがとりわけて悩みも苦しみもなく生きて
  きたことを書いても無意味です 誰だって 何だって この地
  球だって いつか必ず 死にます 太陽だって滅んでしまった
  後に 空だけは 残るでしょう
   もわもわしてて 明るくて
   暗くて 澄んで 青いもの
   雨や雲 雪やみぞれが降るたびに もう生まれ変われないわ
  たしから手紙が来たと思って下さい
   お父さん 怒らないで下さい どうか 空のものは空へ返し
  て お母さん どうか 悲しまないで わたしを火にくべて下
  さい 手紙と日記はわたしが処分しました
   ありがとう
   ほんの少しのあいだでしたけど お父さんやお母さんと会え
  て 楽しかったような気がします
                 さようなら   かおり
    十二月五日---

求められて このひとは 空へ行きました
もう 帰ってきません
----いい日じゃないか ゆうこ
外は とても寒くて 頭の芯から
凍りつきそうだから
家の中にいて ぬくぬくと 冬景色をながめ
午睡を楽しむおまえを思う
----いい日じゃないか ゆうこ
ひとの妻 おまえは今も 夫の揺り椅子を
静かに揺らす
おれの悩みといっても
 たかだか 車一台 家一軒 女一人のことだ
  金で片づくことなら
片づけてしまえ
 と言えるほどの金も無いが
  おれの抱え込む負債の単位は
円でもドルでもない
 この景色のように
  魂があるなら
その魂のように 生活があれ と願う

   ぼうぼうと 雪
枯れた樹木が 倒れて
 その根がむきだしになる
  鳥が
飛翔の姿で
 静止している
  誰が その鳴き声を
聞き分けるのか
 外へかけだして
  立ちつくそうとしても 無駄だ
おれの足跡は
 雪景色を飾らない
  光に透きとおる
あの鳥の骨組は
 確かに おれも
  持っていたはずなのだが

 ここには渡辺信二の詩の特徴がすでに何点か見られる。様々なナレーションが混在すること。一人称に「おれ」が使われていること。
 また、ここには出てこないが、その他の特徴として彼は日本語をニッポン語と呼ぶことがある。これは日本語を自分の前提としてではなく様々な言語の一部として客体化して見る姿勢の宣言に他ならない。もちろんこれは彼が英語に堪能で、アメリカ文学を研究していて海外での生活体験も豊富だという事実と切り離せないのだろう。ついでに言うと彼は東京をトーキョーと呼ぶし、故郷の札幌をサッポロと呼ぶ。
 さてぼくはここで彼が使う一人称「おれ」について考えてみたい。彼は一人称として「わたし」でもなく「ぼく」でもなく、一貫して「おれ」を選んでいる。これは何を意味するか。もちろん日本語には一人称を示す言葉は多くある。その中で「わたし」「ぼく」「おれ」が男性の一人称としてはよく使われる。その中から敢えて「おれ」を選ぶことは誰でもが容易に考えるように男性性を指示するのであろうが、ぼくはそれ以外の指示として、発話の中の一人称という性質があると考えている。通常、書き言葉の中では「おれ」という一人称は使われない。「おれ」という言葉が使われるのは話し言葉の中で、だ。つまり一貫して自らをおれと呼ぶことで彼は自分の文体を発話のものとして規定しようとしているのだとぼくは考えている。
 そしてその「おれ」の発話と並んで様々な文体が使われる。最も特徴的なのは手紙であり、上の詩でも手紙が効果的に使われている。手紙には別の一人称が登場し、彼の詩はポリフォニックな声の場と化す。このことが彼の詩の特徴となっている。
 その場の中で語られるのは死である。どうも実際に愛息を喪われているようなのだが、語弊を恐れずに言えば読者にとってはそれはどうでもよい。読者にとっては詩の中に現れた表現が全てなのだから。そうして彼の詩は全てが鎮魂歌の様相を呈す。第3詩集『不実な言葉/まことの言葉』にしても第4詩集『まりぃのための鎮魂歌』にしてもしかりである。(『不実な言葉/まことの言葉』についてはぼくは書いていて、自分のホームページにアップしてある。興味がある方はご覧いただきたい。)
 さて、そうして今回の新詩集『もうひとつの鎮魂歌』に至るわけである。「もうひとつの」という言葉が付いているのもおわかりいただけただろうか。しかしなぜ「もうひとつの」なのかという疑問からぼくは離れることができない。これまでの詩では書ききれなかった何かがあればこそ「もうひとつの」鎮魂歌を書く必然性もあろうが、果たしてそれが何なのかは遂にぼくには見えなかったからだ。
 とりあえず新詩集からも一編引用してみよう。

02 夏の思い出

おれが思い出したい
おまえは 花火が好きだったこと 最後の夏に
おまえの産毛が 花火に きらきらしたこと
いや違う---- おれが思い出したいことは

夜空いっぱい 花火の連発に
ため息をつく大人たちや うわっと叫ぶ家族連れの
ずうっと向こうで ひっそり おまえが
見つめていたもの

まるで そばには 誰もいなくて
おれさえいなくて あれは 花火は
きれいだったか それとも おまえ ほんとうは
光の向こうの 暗やみを見つめていたのか

おまえが どこかへ逝ってしまったので
おれは いったい 何を思い出せないのだろうか

 ここには確かに渡辺信二の文体があり、渡辺信二のモチーフがある。ぼくはそれらをこよなく愛する。それにも関わらず、ぼくにはそれらは目新しいものとは思われず、過去の詩群を越えているものとは思われない。そのことを、ぼくは彼の詩を愛する故に残念に思わないではいられない。
 一体渡辺信二はどこへ行こうとしているのか。

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