明け方にはこの市の名物である神事が執り行われるはずだった。前の晩、わたしは駅前からタクシーに乗ったが、あたりの様子はふだんとあまり変わらないように見えた。「祭り、やってるんですか」とわたしは訊いた。「海の側は、けっこう人が出てますよ」と運転手は答えた。こっちへ来て3年になるがまだ一度も見ていないのだ、とわたしはいいわけじみた口調で話した。
「これから寝ちゃうと、もうだめでしょうね」運転手は愛想よくいった。
「見るんだったら、これから浜辺のファミレスにでも行って、3時位まで時間つぶさなきゃ。四時位になるとすごい人が出て、車なんか通れなくなっちゃう」
しかし結局、今年も寝てしまったのであった。
※ ※ ※
「おれの買ってきたコーンフレーク食べないの!」
二男に起こされた。
「おれが生まれてはじめて一人で買い物してきたんだよ! えらい?」
えらい。えらいねえ、と言いながら、わたしはのろのろ起きあがった。
「ぼく、注射したんだよ。えらい?」と三男が言った。
「えらい、えらい」何の注射?と妻に訊くと、日本脳炎の三回目ということだった。そうか、あのいちばん痛いといわれているやつか。
「ねえ、お兄ちゃんは本当に逃げちゃったの?」
そうだ、長男は順番を待つうちに恐怖を募らせて、いよいよ自分の番が来たとき、保健所の建物の外まで走って逃げてしまったのだった。その話を公園友だちのユウちゃんのお母さんにすると、ユウちゃんのお母さんは「それはタダモノではない」としきりに感心したということだった。
のろのろと食卓に就くが、子供たちはもうそこを去った後だった。コーンフレークを食べ、新聞とコーヒーと煙草をもってキッチンの上がり框に腰を下ろしながら、洗い物をしている妻にむかって、「絵がヘタな子供が生まれるとはなあ」といった。
「それから作文が苦手な子供が生まれるとはね。それから、本を読まない子供が生まれるとはね」妻は答えた。
昨夜、わたしはダイニングのカウンターに置かれた通信簿(今は「家庭へのしらせ」というものだ)に気づいたのである。さっそく開くと、ほとんどの科目が3段階評価の真ん中(「できる」)で、図画工作だけが「努力してほしい」だった。しかも、「見たこと、感じたこと、想像したことを絵に表すことができる」の項に、努力を要するという意味の三角印がついていた。そのかわり、音楽の「楽器を演奏することができる」という項に、よくできるという意の丸印がついている。
先生の所見。
「やるべき課題を最後までやりとげていますが、やや取りかかりに遅さを感じました。学習への準備や整理整頓がしっかりできるよう望みます。授業では発表もし、自分の考えも素直に言うことができました。とても良い意見がたくさんありました。まじめな取り組みは見られますが活動にスピード感が欲しいです。落ち着いて学習し、理解をより確実にしましょう。」
四年生ともなるとさすがに先生はよく見ている、とわたしは感心した。
そうこうしていると、長男がやってきて、これまでに何度か無視されてきた、駅前前のテナントビルまでポケモンカードを買いに行く提案を、改めて妻に持ち出した。「夏休みになったら、サティにポケモンカード買いに行こうな!」と一か月ほど前からみんなで約束していたのである。
「じゃあM田君のお母さんに訊いてみていい?」妻はすばやく受話器を持ち上げた。「……ということらしいんですけど、お聞きになってらっしゃいます? あ、そうですか、それじゃ……」電話を切って、「聞いてないって言ってるわよ」
「え……だって、でもS君は……」長男はあっさりとうろたえた。妻は計画書を提出させることにした。
長男はしかたなく宿題のドリルにとりかかり始めた。「そんなの一日で終わらせちゃいなさい!」と妻は叫んだ。
しかし、しばらくするとM田君とI井君とS君が来て、ポケモンカードゲームで盛り上がった。その後で、例の計画が次のように提出された。
サティにポケモンカードを買いに行く計画
(1)行く人
じぶん S I井 M田
(2)行き方
じてんしゃ
(3)持っていくお金
拡張セット1セット分
(4)雨の日はどうするか
その日はちゅう止して土か日いがいの日
(5)日時
10時
(6)全員の親のOKはあるか
S ■ I井 □ M田 □しばらくして、二男と三男もいっしょになって全員外へ出ていったかと思うと、小学生だけが帰ってきた。
「あれ、チビたちは?」
「M田んちにいるよ」と長男。
「だって、M田君は、そこにいるじゃないか」
「呼んで来て」妻が言った。
「ええーっ、電話でいいよ。M田、電話何番なの?」
M田君はごにょごにょと数字をつぶやき、長男は勝手に受話器をとって番号を押した。
「もしもし……M田君のおうちですか……」
「ぼくの弟を呼んでください、っていうんだよ」脇で見ていたわたし。
「×××(二男の名)、いますか?……」
どうも様子がおかしい。長男は変な顔をして、「ちがうよ、この番号」といった。
「ええ? ぼくがやってみるよ」とS君が受話器をひったくった。
「はやく呼んできなさい」妻の声が高くなった。
そのとき、インタホンが鳴り、I井君のお母さんが顔を出した。わたしは子供を呼びにきたのかと思い、玄関脇の部屋からI井君が顔を出したから、頭を下げて引っ込んでしまったが、玄関で何か言っているI井君のお母さんの言葉をキッチンで聞いていると、それは「すみません、回覧板なんですけど……」と当惑したように言っているのだった。妻が慌てて出ていった。
庭に出ると、うちに来ている以外の子供たちの喧噪がマンションの敷地じゅうにこだましているようであった。
「夏休みの初日で、なんだか子供が活気づいてる感じがするな」
妻にそういうと、妻は、「うちの子だけじゃなくて?」と憂鬱そうにいった。「K枝ちゃん(私立に通っている隣家の小学生)は朝から勉強してたわよ」もう夏休みはびっちり勉強させなくちゃ、と妻は早くもキリキリしているのだった。