中年の男が急な石段を喘ぎながら登っていた。11月ともなると、奥多摩の山は日中でも気温は5度以下。うすら寒い日が続いている。御岳神社本社から奥宮、そしてさらに奥への道は急な登り下りの連続だ。休み休み辿ってきた細道だが、男の足は棒のようになり、額には大粒の汗が流れていた。
百段以上ある石段を登り切ると、そこはわずかな平地で、小さな鳥居と、その向こうには神社のような建物が建っていた。
鳥居には木の額が掲げられ、その中には剣二本を組み合わせた紋章が刻み込まれていた。神社の前では、巫女だろうか、白い着物に赤い袴の女が境内を掃き清めていた。
「やっと着いた」
男はほっとして立ち止まった。ハンカチで額の汗を拭い、神社の方を見ると、今いた女の姿がもう消えていた。さては狐にでも騙されたかと思って、足を引きずるように歩き始めると、男は首筋に冷たいものを感じた。
「どうしてここへ来ましたか」赤い袴の女は、いつの間にか男の後ろに回って、男の首に木刀を押し当てていた。
女は長い黒髪に大きな瞳で、180cmを越す長身であった。鼻筋が通って美しい。が、木刀を手にした隙のない構えからは、並々ならぬ武道家を想わせた。
「わ、私は、その、こちらに」突然のことに、男は口ごもった。
男が身動きできないでいると、目の前に白い着物と青い袴の男が現れ、にこやかに微笑みながら近づいてきた。胸にはやはり剣の紋章があった。
「やめろ、ジャンヌ。その方は我々に仕事の依頼で来られたのだ」
「え、仕事?」
ジャンヌと呼ばれた女は一瞬だけ意外な表情を見せたが、すぐに言われるままに木刀を収めた。
「門人が失礼致しました。私がこの剣神社の宮司、飛鳥ケンです」青い袴の男は、中年の男を神社の脇のこぢんまりした家屋に招き入れた。
茶室にしつらえられた座敷では、ケンが慣れた手つきで茶を点てていた。
「どうぞ、ご一服」
男に薄茶をすすめたが、山登りの喉の渇きを癒すように勧められるままに一気に茶を飲み干した。
「ところで、早速ですがご用件をお伺い致します。貴方は内閣調査室の……」
「はい、内閣調査室の山岡と申します」頭を下げながら男が言った。
「それで私にどんなご用件でしょう」山岡はハンカチで汗を拭った。
「貴方のようなお方にお願いするには、それなりの理由がございまして」そこまで言って、男は急に小声になった。
「実はヨーロッパの方で事件が起こりまして」
「事件とは」
「はい、駐在EU大使夫妻が誘拐されたのです」
「大使の誘拐ですか。詳しくお話しいただけるのですか」
「はい、二か月前に行方が分からなくなったまま、何の消息もつかめなくなりました」
2004年8月30日号掲載
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