山岡の話によると、ある晩に大使夫妻が公用車ごと消えてしまったという。大使館でも何があったのか始めはわからなかった。地元の警察に捜索願を出していたのだが、失踪してから一週間経ってブリュッセルの駐EU大使館に脅迫状が届けられたという。
「これがその写しです」と言って山岡は便箋のコピーを広げた。それはワープロで打ったわずか三行の短い手紙だった。が、外国語には堪能なケンにも何が書かれているのか、わからなかった。
「この言葉は」
「ラテン語だそうです。大使館にも読める者がいなかったので、翻訳に出したところ脅迫状だったことがわかった、ということです」
「意味は」
山岡は訳文を読み上げた。「『我々は、貴国が国家予算の20パーセントを旧ソ連、東欧への援助に使うよう求める。我々の要求に応じれば、大使夫妻は貴国に引き渡されるであろう。貴国の賢明な判断を望む』という意味だそうです」
ケンは意外なことを聞くような目で山岡の顔を見た。
「それは大変な要求ですね。しかし妙だな」
確かに妙な要求だ。日本の金を旧ソ連、東欧への援助に使って、犯人たちにはどんな利益があるのだろうか。
「そこが問題なのです。このような要求では、犯人の本当の目的が何か、見当もつきません。それに」山岡はまた汗を拭いた。
「我が国も発展途上国への援助は前向きに取り組んでいることでして、政府としても援助額の増額には依存ありません。しかし国家予算の20パーセントなどとうてい無理な数字で」
「そうでしょうね」
国家予算の20パーセントといえば、福祉事業や年金の予算を全て合わせたほどの規模になる。そんな金額を海外援助に使っては、国家の運営が成り立つはずがない。なぜ犯人はそんな呑めるはずのない要求をしてきたのだろうか。
脅迫状には切手は貼ってなかった。大使館の郵便受けに直接入れられたに違いない。となると、犯人か共犯者が大使館の前に現れたということだ。しかし、証拠も残さずに車ごと大使夫妻を誘拐するような犯人が、警備の厳しい中、そんな無謀なことをするだろうか。
他にも奇妙なことがある。なぜ犯人はラテン語で脅迫状を書いたのだろうか。ラテン語は古代ローマ帝国の言葉で、中世ヨーロッパでも教会や宮廷では公用語として用いられた。だが、近年に入ってからは、一般的には使われることがなくなった。そんな言葉をどうして使ったのだろうか。
2004年9月6日号掲載
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