「しかし、妙ですね。誘拐ビジネスの本場といえばイタリアと決まっていましたが、最近ではヨーロッパの事情も変わってきたのでしょうかねえ」

 ケンが独り言のように続けた。

 「連続誘拐事件となると犯人は一人や二人ではない。かなりの人数の組織的犯行とみて間違いない。しかも、根拠地を構えている。被害にあった場所から考えると、旧東欧、それにベネルクス三国かデンマークか」

 ケンはここ数年の間にヨーロッパで起きた出来事を思いうかべた。だが、さしたる大事件は発生していない。懸案だった通貨統合もなって、経済面に関するかぎり、ヨーロッパはいよいよ一つになった。そして、かつての衰退から見事に蘇生し、再び発展期を迎えようとしている。

 それに続くのは東への発展。旧東欧にはドイツ企業を中心に西側資本が洪水のように流れ込み、ようやく経済が上昇気流に乗りはじめた。ポーランドでもルーマニアでも、今や共産党支配の痕跡すらなくなっている。西側資本は更に東へ向い、バルト三国から旧ソ連のウクライナまでも呑み込む勢いだ。

 テロ、誘拐は貧困と裏表の関係にある。ヨーロッパでは、経済の復興とともにテロリズムは影をひそめた。北アイルランドの宗教戦争は完全な和解をみたわけではないが、このところ流血事件は起きていない。フランスのブルターニュ半島やスペインのバスク地方で一時盛んだった分離独立運動も、もはや完全に終息した。あれほど血を流したボスニアですら、民族間の反感を残しながらも、今はとりあえず休戦状態。誰もが、経済発展のパイを追い求めている。現在のヨーロッパには誘拐事件が頻発する理由などないのだ。

 しかし、百人以上の日本人を次々と誘拐し、大使までも拉致したとなると、これは大事件だ。誘拐となるとすぐにマフィアを連想するが、何の手がかりも残さない手口はマフィアにしては鮮やかすぎる。それにしても、なぜ発展途上国への援助などを大使解放の条件にしてきたのか。

 15分程経って、ようやくケンが口を開いた。もっとも、山岡にはそれが一時間にも二時間にも感じられた、が。

 「わかりました。お引き受けしましょう。ただし、一つ条件があります」

 「どんな条件でしょうか」不安気に山岡が訊ねる。

 「私のことを忘れること。私と会ったことも、仕事を依頼したことも、ここの場所も、ここに来る道も。そして私の存在そのものもすっかり忘れて下さい。もし忘れないと」とケンが言いかけると山岡が早口で遮った。

 「もちろん、忘れましょう。それならお安い御用です。すぐに、すっかり忘れます。ああ、これで私も肩の荷がおりました」

 山岡はほっとして全身から力が抜けた。

 山登りの疲れからか、急なけだるさに襲われた、もう口を利くのも、目を開けているのもおっくうだ。眠っているような目で、山岡の体を左右に大きくゆれる。そして、畳の上に崩れるように倒れた。

 

2004年9月27日号掲載


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