官邸奥の小会議室では、四人の男が分厚い一枚板のテーブルを囲んでいた。四人は駐EU大使誘拐事件の対策を協議する日本政府の責任者だ。
カーテンが引かれた窓を背にしているのは、内閣官房長官の前橋孝一郎だ。元警察庁長官の切れ者で、畑田現内閣の実力者である。がっしりとした体格と暗い顔がいかにも警察官僚出身らしい。
その右隣には現警察庁長官の沢井慎一郎。警察官僚としてずっと前橋の後を歩き続けて、現在も前橋の弟分的な存在だ。
その隣が、山際外務事務次官。仕立てのいいスーツを身につけている。日本外交の事実上の責任者だが、学者のような風貌だ。
そしてもう一人は、内閣調査室長の有泉。死んだ山岡の上司で、山岡に大使誘惑事件の解決をケンに依頼をさせた人物である。
前橋の冷たい目が三人を交互にみつめる。
「それで、さっきも言ったように、政府としては何としても平和裡に解決したい。もちろん、国家予算の20%などという額はのめるものではないが、旧ソ連東欧への援助の増額には応じよう。それに、穏便に解決されるなら犯人グループに身代金を支払っても構わないと考えている。その方法で話を進めたいわけだが、外務次官、その後何か情報はないですか」
山際外務次官は困った顔を見せた。
「それが、欧州各国の大使館を通じて現地の警察とも連絡をとっているのですが、今のところ新しい情報はありません」
「先週集まったときは、来週になれば現地の警察から情報が入るという話でしたが、そうじゃなかったのですね」
前橋が皮肉をこめて言う。
「はあ、大使館からはそのように報告してきていたのですが、現地でも捜査は難航しているようでして」
山際は苦しげだ。
「そうですか。それでは、連絡があり次第、知らせてください。沢井君、警察庁の方には何かあったかね」
後輩の沢井には今でも「君」づけだ。
「いや、こっちにも今のところ何もありません」
「そうか。とにかく何かあったらすぐに知らせてくれ」
前橋は続ける。
「今のところ大使誘拐事件は、政府部外の誰にも知られていないが、国会会期中でもあるし、野党の連中に知られると面倒だ。速やかに、かつ極秘裏に解決したいので、そのつもりで尽力して下さい」
前橋が立ち上がりかけると、それまで黙っていた有泉内閣調査室長が口を開いた。
「官房長官、お言葉ではありますが、短期間のことなら極秘裏に処理するのも結構ですが、もうこの事件は限界ではないでしょうか」
前橋は冷ややかに有泉を見た。
「ほう、それでは、調査室長はどのようにお考えかな」
「はい。方針を切り替え、事件を公表し、各国政府の首脳にも総理自ら全面的な協力を求めるべきかと考えます」
「しかし、そんなことをして大使の身にもしものことがあったらどうするんだ」
「たしかに、その危険はあります。が、今のままでは解決の糸口も見えてきません。総理ご自身が乗り出したとあれば、欧州各国の政府も本腰を入れざるを得ないのではないでしょうか」
「いや、それはだめだ。大事になれば危険が増すだけだ。それに。カネによる解決も難しくなる。テロリストへの身代金支払いには各国の政府が神経をとがらせているからね」
前橋は有泉の発言に耳を貸す気がないようだ。が、有泉は持論を続けた。
「その点ですが、カネを払って解決をすること自体が問題なのではないでしょうか。日本人を誘拐すればカネをとれると思えば、誘拐がさらに誘拐を呼ぶことになります。今度の事件も、これまで人命尊重を重視するあまり、テロリストにカネを払い続けてきた日本政府、というより日本社会全体にツケが回ってきたとも言えるのではないでしょうか」
有泉の言葉に前橋は苛立った。
「それでは、調査室長は人命はどうでもいいとでも言うのかね」
「いや、そこまで申し上げるつもりはありませんが、今までのやり方ではまずいと」
前橋の顔が怒気で紅潮してきた。
「いいかね、極秘裏に処理するのは畑田内閣の方針なのだ。それを肝に命じておいてもらいたい」
そう言うと、前橋は席を立ち、大股で部屋を出た。
後には気まずさが残った。
2005年1月31日号掲載
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