前橋は総理執務室の重い木の扉をノックもしないで開けた。
「前橋ですが、ちょっとよろしいですか」
畑田総理は経済閣僚との会議を終え、住居である公邸に引き上げるところだった。
「ああ、君か。かけたまえ」と、ソファーをすすめた。
やっこらさ、と言いながら前橋はソファーにどっかと腰をおろし、パイプに火をつけた。あたりに紫煙がたちこめた。
「いま、例の大使誘拐事件について話してきたんですがね。調査室長の頭が固くて、ありゃあいけませんわ」
「ああ、そうかね」
畑田は気のない返事を返した。
「通常国会が終われば勇退してもらうことでよろしいでしょうね。後任には警察庁出身者を充てたいと思いますが」
「しかるべく、君の力でしかるべくやってくれれば、それで結構だ」
根っからの政党人である畑田は、官僚の人事が苦手だ。
畑田はもともと大した政治理念があったわけではなく、政策に通じていたものでも無い。いわば、ポストにつくこと、総理になることだけを目標に生きてきたような人物で、ある意味では、日本の政治家の典型。頂点を極めた後は、できるだけ長く総理の座にとどまることだけが関心事だ。官僚の人事などどうでもよく、いきおい前橋官房長官のいいなりになる。
一方、前橋の力は増すばかりだ。警察庁長官を退官して、郷里の岐阜から代議士に出たのはわずか一年前。当選するとすぐに畑田内閣の官房副長官になって、同僚議員を驚かせた。そして、半年前の内閣改造では、官房長官に昇進。現在では政界一のホープと目されている。
しかし、ホープなどという形容は、とても前橋には似つかわしくない。人好きにしない顔、ときおり見せる暗い表情。そして、鋭く光る目は、冷たさを通りこして、おそろしささえ感じさせる。
前橋が政界で急激にのしあがったのには理由がある。
まず、警察機構を利用しての情報収集力。前橋のところには、国会議員全員のファイルがあり、それには家族、交友関係から財産、借金、はては病歴から愛人関係まで、何から何までが記録されているといわれている。むろん、実際にそれを見た者はいないのだが、そのようなファイルを持っていると噂されるだけで、政界には大きな力になる。
それ以上にきわだっているのが資金力だ。いくら警察官僚のトップをきわめたといっても、政界に入った当初は自分自身の政治資金の調達に四苦八苦するのが普通だ。
それが前橋の場合、すでに100人以上の議員に活動資金を配っているといわれている。前橋の資金は年間30億とも50億とも言われているが、正確なところは誰にもわからない。畑田内閣の資金も現在は前橋が支えているが、それだけに、前橋の畑田総理に対する態度も日に日に尊大さを増してきた。
2005年2月28日号掲載
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