前橋を乗せた公用車は、首相官邸を出て溜池から麻布方面に向かった。麻布十番商店街を過ぎて急な坂を上ると、そこには都心とは思えないような静寂が広がっている。内閣官房長官前橋孝一郎の私邸は、この高級住宅地の一角にあった。
門の前に止まると自動的に扉が開き、公用車が車寄せに横付けされた。運転手が急いで後ろに回り、前橋のドアを開けた。
「お帰りなさいませ」
出迎えは中年のメイド一人。前橋はこの女を雇っているだけで、広い洋館に一人で住んでいる。もともと財産家だったわけではない前橋が、なぜ警察庁を退官してすぐに大邸宅を手に入れることができたのか。疑問をはさむ向きもあるが、前橋を怖れてか、それを公言する人間はいない。
前橋には妻がない。いや、正確には以前はいたが今はいない。前橋の妻は大臣経験もある代議士の娘だった。むろん、将来を考えての布石の意味での結婚だった。権力欲に燃える前橋は得意だった。だが、妻の父親は疑獄事件に関わって失脚。子供を二人生した仲ではあったが、事件が発覚すると、前橋は何のためらいもなく離婚した。それ以来、何人かの女と関係を持ったが、正式な結婚はしていない。
公用車を帰し、前橋は建物の中に入った。そして一階の一番奥の書斎兼寝室に引きこもる。この部屋にはいつも鍵がかけられ、メイドも入ったことがない。
前橋は、服を脱いでガウンを羽織った。そして、ひとしきりパイプをくゆらすと、壁一面に作り付けてある書棚の本を一冊退けた。奥にスイッチがあり、押すと書棚の一部がゆっくり回転して通路が現れた。通路を入るとすぐ階段で、降り切ったところは行き止まり。小さな液晶モニターの付いた機械が置かれている。そこでパスワードをインプットすると、今度はコンクリートの壁が横に動いた。その中には前橋の力の源泉ともいうべき秘密が納められていた。
10坪ほどの広さの秘密地下室でまず目に付くのは黄金。金の延べ板が床から天井まで井桁状に何組も積み上げられていた。その横にいくつも置かれた段ボール箱には一万円の新札の束。ドル紙幣も無造作に山積みにされていた。
反対側の壁面には書架が並び、ぎっしりとファイルが置かれている。これが、何でも記録されていると噂される前橋ファイルだ。
前橋は思った。
(今の自分には50億や100億のカネを動かすのは簡単だ。まず、代議士どもを札束でひっぱたいて多数派工作だ。言う事をきかない奴にはこのファイルがある。あの畑田の爺さんには当分首相をさせておくが、いずれ自分がとって変わる。飴とムチを使い分けて最高権力を手にするのだ)
2005年5月23日号掲載
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