パリの四月はまだ朝晩の肌寒さが残り、なまり色の空が続いている。だが、ときおり合間から差し込む光には、やはり春の明るさが感じられる。もうひと月もすればマロニエの新芽が吹き出す頃だ。

 シャンゼリゼーから小道を少し北に入ったところの小さなホテルの一室にケンとジャンヌが滞在していた。助っ人として着いたばかりのサイゾウの姿もあった。

 ソファーで伸びをしながらサイゾウが尋ねた。

「それで、ケンさん、誘拐犯人はまだわからないのか」

「ああ、皆目見当もつかん」

「サスケの消息は」

「それもつかめん」

 ベッドの上に靴を履いたまま横になってケンが答えた。ひと月あまりの調査で得るものは少なかった。駐在員連続誘拐事件の方も情報は得られなかった。

「日本の企業の駐在員から事情を聞いてみたが、皆おびえているようだったな。何か知っていることがあっても、つとめて何も教えまいとしているようだった」

 ケンは大使館の中西一等書記官の助けをかり、日本企業を回って情報を得ようとした。だが、協力的な企業はなく、一様に「この件については、いろいろ事情もありますので」と言って、話題にすることすら避けているようだった。

 ケンが続けた。

「身代金を払って、誘拐された駐在員は解放された。だが、それで終わりにはなっていないような感じがするんだ」

「当たり前だ。犯人を逮捕するまで事件は終わりになるわけじゃない」

「いや、そういう意味じゃあなくて、何か日本企業は今でも犯人に脅されているんじゃないかって、そんな感じだ。もっとも証拠があるわけじゃなくて、俺の憶測だがな」

「でも、被害者は解放されたんだろう。後はどうやって脅すんだ」

「それはいろいろできるさ。別の社員を誘拐するとか、支社長を殺すとか言って脅迫するとか。もちろん最初からそんなことを言っても大して効果はないだろう。だが、一度本当に誘拐事件が起きて恐怖を味わわされると、次はどんな脅しでも効くんじゃないか」

「そんなものかね」

 サイゾウは納得できない表情だった。

「ジャンヌ、お前の方のことも話してやれ」

 ケンがジャンヌに首を向けた。ジャンヌは窓際に立って外を眺めていたが、椅子にかけながら、「直接事件に結びつく情報はないんですけれど、ちょっとした変化に気付いたわ」

 ケンとは別に、ジャンヌは夜の盛り場に入り込んで手掛かりを探っていた。

「なんだか街の治安が良くなったような感じなのよ。パリでもアムステルダムでも以前は盛り場には柄の悪い男が何人もたむろしていて、私なんか声をかけられて大変だったわ。でも今度は違うのよ。とても清潔で安全な街になっていたわ」

「ほう、それは妙だな。日本人誘拐事件が続いているというのに、街は表向き安全な顔をしているということか」

「そこなんだよ、サイゾウ。誘拐事件には関係ないことかもしれないが、俺はどうもそこにひっかかりを感じるんだ」

「ひっかかりって、ケンさんはどう考えているんだ」

「俺にもよくわからない。だが、ある仮定をたてると、全ての辻褄が合ってくる」

「ケンさん。どういうこと」

ジャンヌも身を乗り出してくる。

「ヨーロッパの裏の社会が何かとてつもない大きな力に支配されているんじゃないかってことだ。そいつらが、日本人ビジネスマンを誘拐し、大使も拉致した。サスケもやられた。そして、今でも日本企業を脅している。盛り場からならず者を一掃したのもそいつらだし、ブリュッセルのグランプラス広場で俺を襲ったのもその連中だ」

「まさか」

 サイゾウには信じられない話だった。

「まさかと思うがそれはわからない。だが、巨悪に支配されると、街は表面的には平和になるものだ。ナチス支配下のドイツや、スターリン時代のソ連には、街のならず者などいなかったというぞ」

 ジャンヌもサイゾウも言葉がなかった。ケンはそんな大きな敵とどうやって戦おうというのだろうか。

 ケンはなにげなくベッドの脇に置いたコンピューターのスイッチをいれた。パスワードを打ち込むと画面に乱数表が現れる。『神の剣』の仲間からの電子メールだ。『神の剣』では、乱数表を利用した暗号で交信している。暗号としては初歩的なものだが、それでも一般人に交信内容を知られることだけは防げる。

 ケンは暗号を解読する。メールの内容は「ホンブシュウゲキサレル。ムサシ」であった。

 

2006年8月28日号掲載


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●「神の剣」掲載にあたって●