ブリュッセルから南東に伸びるハイウエイ上の車の中にケンの姿があった。運転するのは、駐在EU日本大使館一等書記官の中西。警察署から出向中のアタッシェだ。
夕刻とあって、帰宅を急ぐ車の列で市内からずっとノロノロ運転が続いている。
ケンはここ数日の出来事を思い返していた。
ムサシに後を託し、成田空港に向かったのが三日前。サベナ航空のブリュッセル直行便に乗る予定だったが、ふと覗いたVIPルームに西崎大蔵大臣の姿。先進国首脳会談(サミット)の準備会議に出席するため、同じ便に搭乗するらしかった。
直感的に危険を感じ、急遽KLMオランダ航空のアムステルダム行に変更。事なきを得たが、大蔵大臣が乗ったサベナ航空機は旧東ドイツ北方、バルト海の上空で突然謎の爆発。機体はこなごなになって墜落し、乗客は全員死亡と見られている。
時限爆弾を仕掛けられたか、あるいは海上からミサイルの攻撃を受けたか。まだ原因は不明だ。
――狙いは大蔵大臣か、それとも俺だったのか――
ブリュッセルの日本大使館前で、あわただしい動きを観察していると、出くわした中西の怪訝な顔。ケンが生きているのが不思議だったのだろうか。これが昨日のことだ。
中西は何か秘密を知っているに違いない。こいつからせめてみようと、大使館を訪ねた。意外にも中西の方から言い出してきた。
「実は、大使夫妻誘拐事件であなたにお話ししていなかったことがあるのですよ。事件の鍵を握る人物がいるのです。よろしければ今晩ご案内しますがいかがでしょうか」
どんな魂胆かわからないが、何か起きる、と思って、中西の車に同乗してきた。
ブリュッセル郊外の住宅地を過ぎると、急に車の流れがよくなった。中西のBMWは軽快なエンジン音を発して時速一二〇キロ程で走る。
車を二、三台挟んだ後から、黒のメルセデスがBMWをぴたりと追っていた。運転するのはサイゾウ。彫りの深いハンサムな顔に、黒いつなぎがよく似合う。助手席にはジャンヌの姿があり、こちらも黒いつなぎだ。長い髪は小さくまとめられ、黒いベレー帽を被って、一見ファシストかぶれの少年のようだ。
「サイゾウさん、見失わないでね。あの中西という男、きっとケンさんを自分たちの秘密アジトに連れ込むつもりだわ」
ジャンヌは心配そうな表情だった。
「はいはい、わかっていますよ、お嬢様。こうみえても忍法の修業をつんだ身ですからご安心を。運転の方も国際A級ライセンスですので大丈夫ですわ」サイゾウはジャンヌの口調を真似てからかう。が、口元は笑っていても、目は笑っていなかった。
「いったいどこに行くつもりかしら。もう一時間以上走ったわ」
二台の車はベルギー南東の街、ナミュールを通り過ぎ、ルクセンブルク方面に向かっていた。
中西は無表情でBMWのハンドルを握っていた。
ケンが横目で見ながら尋ねる。
「ところで、サベナ航空機爆破事件の原因究明は進んでいますか」
「いや、まったくこれからの状態です。関係国と協議して、日本人乗客の安否を確認することから始めなければなりません」
「大蔵大臣は気の毒なことになりましたね」
「ええ、こっちでサミットの準備会議に出られる予定でしたので。われわれ大使館員もおおわらわです。とにかく、早急に善後策をとらなければならないもので」
「そんなお忙しいときに、こちらの用でこんなところまでご案内いただいて、大変申し訳なく思います」
「いえ、そんなことはありません。大使館夫妻誘拐事件の解決に役立つことでしたら、何でもご協力いたしますよ」
「ありがとうございます。それで今日ご紹介いただくのはどういう方でしょうか」
ケンは前を向きながら尋ねた。もとより、答えを期待してのことではない。
「はあ、私の口からお名前をお知らせするわけにはいきませんが、とても重要な方です。一国を動かすような力もお持ちです。ご本人から直接お話しがありますので、いろいろお聞きになってはいかがでしょうか」
やはり答えない。
ケンは考えている。
――重要な人物とは、重要な情報を持っている人間のことではない。おそらく誘拐犯人そのものではないのか。そして中西はどんな役割をしているのだ。俺をそこに案内する目的は何だろうか。それとも、途中で俺を殺るつもりか。そうだとすると、必ず仲間が出てくるはずだ。中西も俺の武芸の腕は知っているはずだ。まさか、自ら銃をむけたりはしないだろう。――
2007年10月2日号掲載
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