あ ら す じ

 リビングを出た途端に恋のテンションは急に落ちてしまった。とぼとぼと肩を丸めて歩いている。

「もう、ダーリン──どうしちゃったの? あのオバサンにうまくOK出させたんだから、もう、それでいいじゃない」

 菫が腕に絡みつくが、表情は暗いままだ。

「ハニー。僕は愛久との関係の築き方を間違えたのかもしれない」

「え……ちぃちゃんとの? なにが?」

「さっき、なんて言ったと思う、愛久?」

「わ、わからないけど」

 恋の瞳が悲しげに笑う。

「あいつ、俺はアンタの記憶道具じゃない、って言ったんだ」

「……どういう意味?」

「それこそわからないけど」

 恋はお手上げのポーズをして顔をそむけた。焦った菫は手加減なしの力で恋の背中を叩く。

「ほ、ほら、ダーリン、ブランク長いんだし、フランス語の聞き間違いかもよ?」

「ブランクの長さは愛久と一緒」

「そうだった……でも、ほら──あ、ちょっと。泣いているの?」

 恋が鼻をすする音がする。とうとう完全な涙声になった。

「愛久は最後にこう言ったんだ」

「な……何を言ってくれちゃったの?」

「Assez!ってね──もう十分って意味さ。それをあんなキツイ口調で言わなくたって……。しかし、この家には本当に幽霊がいるのかもしれないな。あの優しい愛久が僕に面と向かって、あんな……」

 はたして、愛久はなぜ利羽を殴ったのか。しかも顔に傷がつくほど強く。そして、なぜ愛久は恋に反発するようなことを言ったのか。

 菫には白崎家の事情はよくわからなかったけど、ダーリンを思う気持ちは人一倍だったから、頭に血が上ってくる。

「愛に聞き取られなくてよかった。日本語よりいくらかごまかしがきくから、フランス語って便利だね。……愛久が言ったことは愛には秘密ね、ことが大きくなるから。あと、愛久を追及しないであげて。ハニーがきつく言われたら可哀想だし、それに……犯人の思う壺だ」

 菫のとりそうな行動を読んでいるのだった。泣きながらも周囲の人間を気遣う、そんなダーリンがますます大好きになった。

 でも、だ。

「でも──ちぃちゃんに、ダーリンの本当の気持ちを伝えてあげればよかったのに。話を聞いてもらえなかったのね?」

「違う。自主規制したんだよ。今の愛久には何を言ったって駄目だ。僕が言い返したりしたら、事態は悪くなる一方だろう。それで、いつもの通り、悪くなった空気を収束させようとする愛が絶対に巻き込まれるだろう。そうしたら、愛のもやもやした気持ちを、偶然とはいえ、せっかく美静ちゃんが晴らしてくれたのに、また愛が後ろ向きになるじゃないか。そんなことになったら、調査隊は空中分解だ」

「ダーリンはみんなのためなら誤解されっぱなしでいいの?」

 ダーリン視点の菫にとって、それは受け入れがたい。

「私、そんなの絶対イヤ。ダーリンだけが全部抱え込むことないじゃない」

「ハニー……」

 今までの経験から言って─―中学時代に起こした暴行事件の際も、愛久は、相手が吐いた暴言の内容を「忘れた」と断じて明かさなかった。それがわかったのは見ていた者の証言からだった─―愛久は利羽に何を言われたのか、絶対に口を割らないだろう。

 だったら、と菫は恋の手を握った。

「ちぃちゃんが怒った理由、私が調べる。どうせ、あのマセた子供が余計なこと吹き込んだんだわ。コレさえわかればぁ、ダーリンもちぃちゃんと仲直りのきっかけができるしぃ、めでたし、めでたしでしょぉ?」

「でもさ、ハニー……」

「それに、なにか役に立たないと、私、強引に付いて来ちゃったから、居づらいんだもの。だから遠慮しないでドーンと任せといて! ねっ?」

 本音は、恋が間違うことなど百%ありえないと思い込んでいるので、愛久に謝らせないと気がすまないから、なのだが。それは黙っておこう。

 恋はさっきまでとは違う涙を流し、菫を抱き寄せるのだった。その姿を、利羽を連れた俊子と、美静の母にまで見られて、ちょっと気まずい思いをした。

 

2006年1月30日号掲載

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